日本語は、外国語を拒絶することで守られてきたのではない。
到達できる知があると判断したとき、それを取り込み、自らのものとしてきた。
「国産LLMでなければならない」という主張があるなら、その前提に立って問うべきことがある。
その日本独自モデルならば、どんな知に到達できるというのか。
日本が外国語を取り込むとき、
それは流行でも、服従でも、同調でもない。
その言葉がなければ、
到達できない知があったからだ。
- 漢文は、統治と思想をもたらした
- 仏教語は、生と死を語る語彙を与えた
- オランダ語は、近代技術への窓だった
- ドイツ語は、医学と哲学の精度を引き上げた
- 英語は、科学と工学を世界につないだ
共通しているのは一つ。
日本語が不足していたからではない。
日本語が“先へ行くために”必要だった。
もし「国産でなければならない」と言うなら、
その問いにまず答える必要がある。
その日本独自モデルならば、
どんな知に到達できるというのか?
そこが語れないなら、
それは文化防衛ではない。
停滞の正当化だ。
日本語は、
価値のあるものしか取り込まない。
だから今、
世界中で鍛えられ、
人間の思考に耐え、
対話の限界まで使われている知性があるなら、
日本語はそれを使い、
咀嚼し、
必要なら改造し、
不要なら捨てる。
それだけだ。
日本語がそんなに脆いなら、とっくの昔に消えてる。

