焼け跡から始まった“電子の夢”
戦後の日本。灰の中から再び「計算機」という言葉が蘇る。
東京工業大学を卒業した池田敏雄は、富士通信機製造(現・富士通)に入社。
都庁統計課への統計分類集計機納入を皮切りに、
日本の計算機開発の第一歩を踏み出した。
FACOMの夜明け ─ 湯川秀樹を支えた計算機
1954年、池田が設計した「FACOM 100」は、日本初の科学技術用実用計算機となった。
湯川秀樹博士の多重積分をわずか3日で解き切るという偉業は、
「日本にも電子頭脳が誕生した」と世界を驚かせた。
リレーからトランジスタへ ─ 時代を読む感性
池田は時代の波を読む力に長けていた。
リレー式からパラメトロン、そしてトランジスタへ。
1950年代後半、世界が電子回路の革新に沸く中、
彼は「FACOM 222P」を完成させ、日本独自の方式で米国に迫る礎を築いた。
IBMに挑んだ男 ─ FACOM 230の決断
1964年、IBMがSystem/360を発表。
池田は「互換路線」という賭けに出た。
翌年発表されたFACOM 230シリーズは、その思想に真っ向から挑んだ国産機だった。
小林大祐の経営判断、山本卓眞の開発力、そして池田の設計哲学が交差し、
超大型マルチプロセッサFACOM 230-60が誕生。
一時、日本の計算機は世界最速となった。
スーパーコンピュータへの系譜 ─ FACOM 230-75 APU
1973年、池田は最後の夢に挑む。
航空宇宙技術研究所の三好甫と共に、日本初のスーパーコンピュータFACOM 230-75 APUを開発。
ベクトル処理という新概念を採用し、米国Cray-1にわずか1年遅れて完成。
これは日本の「ベクトル計算機」時代の幕開けであり、
後のFACOM VPシリーズ、そして富岳へと続く系譜の原点となった。
羽田の空で果てた技師
1974年(昭和49年)秋。
カナダのコンピュータメーカーCCI社長の出迎えのため、羽田空港へ向かった池田敏雄は、
ロビーで突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年51。
当時の肩書は富士通常務取締役。
その死は「戦う技術者の壮烈な戦死」とまで言われ、
死後に専務取締役を追贈された。
社葬が執り行われたその日、社員たちは「日本のコンピュータ産業の父を失った」と涙したという。
名言に宿る魂
池田敏雄は、技術だけでなく“哲学”を持つ技術者だった。
その言葉は、今もエンジニアの胸を震わせる。
「開発は感動から始まる」
「挑戦者に無理という言葉はない」
これらは単なる言葉ではなく、彼の人生そのものだった。
限界を超える情熱こそが、国産コンピュータを世界へ押し上げた燃料だった。
日本技術者の祈りとして
池田の遺した思想は、技術を超えて“希望”そのものである。
それは、敗戦から立ち上がった国の技術者たちが、
未来への信念だけを武器に挑んだ証。
そして今、スーパーコンピュータ「富岳」の静かな稼働音の中にも、
彼の声が聞こえる。
「開発とは、人の夢を形にすることだ。」
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