非構造データとしての文化── 中国・EU・日本に見る「管理不能なもの」の復讐

非構造データとしての文化── 中国・EU・日本に見る「管理不能なもの」の復讐 TECH
非構造データとしての文化── 中国・EU・日本に見る「管理不能なもの」の復讐

文化とは、人間社会における非構造データだ。

仕様書はなく、正規化もできず、
入力形式は人によって違い、
意味は文脈に依存し、
しかも削除してもどこかにバックアップが残っている。

にもかかわらず、文明はこれを
管理し、分類し、リスク評価し、
最終的には「扱えるもの」にしようとする。

それは、ログも取れず、スキーマも定義できないデータを、
無理やりRDBに突っ込もうとする行為に似ている。

最初は警告が出る。
次に例外処理が増える。
やがて、システム全体が不安定になる。

それでも人類は、この設計をやめない。

中国は、非構造データそのものを物理的に削除しようとした。
EUは、精緻なガバナンスで正規化を試みている。
日本は、仕様を明文化せず、空気というブラックボックスで運用する。

方法は違う。
だが、向かっている問いは同じだ。

管理不能なものを、管理できると信じたとき、文明は何を失うのか。

この文章は、その失敗の記録であり、
そして――
非構造データが最後に返してくる、
静かな「復讐」の話である。

序論―― なぜ、いま「文化」の話をするのか

この文章は、怒りから始まったものではない。
また、流行の論争に乗るためのものでもない。

ただ、世界のあちこちで同じ種類の軋む音が聞こえ始めている。
それを無視できなくなっただけだ。

象徴的なのは、クリスマスだ。
かつて宗教行事であり、いまや多くの国では単なる季節行事に過ぎないこの祭りが、
再び「扱いに注意が必要なもの」として扱われ始めている。

奇妙な現象である。

誰も本気で信仰していない。
誰かに信仰を強要しているわけでもない。
それでも「宗教的だから」「配慮が必要だから」という理由で、
公共空間から後退させられていく。

これは宗教復興の兆しではない。
むしろ逆だ。

宗教性を失った文化が、後から宗教として再定義され、排除される。

この倒錯した順序こそが、今回の主題である。


問題は、クリスマスそのものではない。
それは単なる入口に過ぎない。

本当に問うべきなのは、次の点だ。

なぜ文明は、
すでに無害化された文化すら、
なお管理しようとするのか。


文化は、本来、説明しきれない。
誰かに完全に理解される必要もない。

祭りとは、
担ぐ者がいて、
見物人がいて、
無関心な者がいて、
それでも続いていくものだ。

ところが現代社会は、
文化に対して次のことを求め始めている。

  • それは何のためにあるのか
  • 誰を排除していないか
  • 誰に配慮すべきか
  • 公共性を損なっていないか

一つ一つはもっともだ。
だが、それらをすべて満たさなければ存在を許さないとした瞬間、
文化は生き延びられなくなる。

この文章は、
特定の国家や宗教を告発するためのものではない。

むしろ逆だ。

文化を壊しているのは、
過激さでも野蛮さでもなく、
秩序を愛する文明そのものではないか。

その問いを、
中国、EU、日本という異なる文脈を通して確認していく。

結論を急ぐつもりはない。
ただ、途中で見えてくるはずだ。

文化が破壊されるとき、
それはいつも――
善意と合理性の顔をして現れる

第1章―― クリスマスという「説明不能な文化」

クリスマスは、もはや信仰ではない。

少なくとも、欧米社会においても、日本においても、
それはイエス・キリストの生誕を厳粛に祝う宗教儀礼ではなく、
家族が集まり、休暇を取り、街が少しだけ華やぐための
季節行事に変質して久しい。

それにもかかわらず、近年、奇妙な扱いを受け始めている。

「宗教的だから注意が必要だ」
「多様性への配慮を欠く恐れがある」
「公共空間では中立性が求められる」

こうした理由で、
商業施設、学校、自治体の装飾やイベントが
静かに、しかし確実に縮小されていく。

ここで重要なのは、
誰かが「信仰を押しつけられた」と訴えているわけではない、という点だ。

問題視されているのは、内容ではない。
存在の仕方である。


クリスマスは、非常に扱いにくい文化だ。

  • 宗教に由来するが、宗教行為ではない
  • 商業化されているが、単なる販促でもない
  • 祝う人もいれば、気にしない人もいる
  • 参加しなくても、排除されることはない

つまり、輪郭が曖昧だ。

この曖昧さこそが、
かつては社会にとって無害で、むしろ潤滑油として機能していた。

だが、現代社会はこの曖昧さを許容しなくなった。


理由は単純である。

現代の制度は、
すべてを説明できることを前提に設計されている。

  • 目的が明確であること
  • 対象が定義できること
  • 排除や差別が起きないこと
  • リスクが評価できること

この基準に照らすと、
クリスマスはどうしても例外になる。

例外は、管理できない。
管理できないものは、危険に見える。

その結果、
かつて無害化されていた文化が、
後から「宗教的行為」として再分類される

これは逆転である。

信仰としての意味が失われたからこそ存続してきた行事が、
信仰という枠に押し戻され、
排除の論理に組み込まれていく。


ここで起きているのは、
宗教と世俗の対立ではない。

制度と文化の衝突だ。

制度は、
「誰にとっても同じ意味を持つもの」
「同じルールで扱えるもの」
を好む。

文化は違う。

文化は、
人によって意味が違い、
参加の濃淡があり、
理解されなくても成立する。

だから、文化は制度にとって
常にノイズになる。


クリスマスが問題視されるのは、
それがキリスト教的だからではない。

説明しなくても成立してしまう文化だからだ。

「なぜ祝うのか」と問われたとき、
多くの人は、うまく答えられない。

「なんとなく」
「そういう季節だから」
「昔からやっているから」

この答えを、
現代社会は許容しなくなった。


この章で確認しておきたいのは、ただ一つだ。

文化が危険視されるとき、
それは必ず“意味の曖昧さ”を理由にされる。

そして、その曖昧さこそが、
文化が文化である理由でもある。

クリスマスは、
単なる祭りではない。

それは、
文明が文化を扱いきれなくなったことを示す
最初の警告音に過ぎない。

第2章――文化を管理したくなる人類の性

文化が衝突を起こすのは、暴走したときではない。
むしろ、秩序を求められたときに壊れ始める。

人類は、文化を愛してきた。
同時に、文化を恐れてきた。

なぜなら文化は、
・効率が悪く
・一貫性がなく
・説明できず
・制御できない

それでいて、人を強く動かすからだ。


制度は、管理できるものを前提に作られる。

  • 目的が明確である
  • 効果が測定できる
  • 例外が少ない
  • 誰が責任を負うか分かる

この条件を満たすものだけが、
「正しいもの」として制度に組み込まれる。

文化は、そのどれにも当てはまらない。


ここで、人類は誘惑にかられる。

「ならば、文化もルールにしてしまえばいい」

この瞬間が、破壊の始まりだ。

文化をルールに落とすと、
そこから零れ落ちるものが必ず出る。

  • 文脈
  • 暗黙
  • 余白
  • 冗談
  • 照れ

これらは、制度にとってはノイズだ。
だが、文化にとっては生命線である。


管理とは、悪意ではない。

多くの場合、
管理は「善意」から始まる。

  • 誰も傷つけないため
  • 誰も排除しないため
  • 誰も不快にさせないため

こうして文化は、
無害化されていく。

だが、無害化とは何か。

それは、
誰の感情も揺らさない代わりに、
誰の心にも残らない状態
だ。


文化が制度の言葉で語られ始めると、
必ず次の段階に進む。

「それは必要なのか?」

ここで、文化は負ける。

文化は、
必要だから存在するのではない。
役に立つから続いてきたわけでもない。

ただ、
人が人であるために、
そうしてきただけ
だ。

この理由は、制度では扱えない。


人類は何度も、同じ過ちを繰り返してきた。

  • 宗教を純化し
  • 風習を正し
  • 言葉を整え
  • 表現を矯正する

そのたびに、
「これで秩序が保たれる」と信じてきた。

結果はどうだったか。

文化は消えない。
ただ、歪んだ形で戻ってくる


ここで重要な点がある。

文化を壊すのは、
無知な大衆でも、過激な少数派でもない。

最も危険なのは、
理性的で、善意で、秩序を愛する側
だ。

彼らは言う。

  • 「念のため」
  • 「万が一に備えて」
  • 「誰かが不快に思うかもしれない」

この言葉は、
銃よりも静かに、
文化を殺す。


文化が管理対象になった瞬間、
それはもはや文化ではない。

それは
運用ルールであり、
ガイドラインであり、
コンプライアンス項目だ。

ここまで来ると、
破壊は時間の問題になる。


この章で確認したいのは、ただ一つ。

文化は、敵視されたときではなく、
理解されすぎたときに死ぬ。

そして、
文化を完全に理解したつもりになった文明は、
必ず次に進む。

「では、消そう」

次の章では、
この衝動が最も極端な形で実行された例を見ていく。

第3章――中国:文化大革命という極限実験

文化大革命は、狂気の産物ではない。
ましてや宗教戦争でも、偶発的な暴走でもない。

それは、統治の失敗を前にした権力が、
最も合理的だと信じた選択の結果
だった。

この点を外すと、文化大革命は理解できない。


1960年代初頭、中国は壊滅的な失敗を経験している。
大躍進政策による大飢饉だ。

数千万単位の死者。
農村の崩壊。
国家の正統性の根幹が揺らいだ瞬間。

問題は、飢饉そのものではない。
それを誰が、どう語り始めたかだ。

文化人、知識人、学者、作家。
彼らは、数字ではなく言葉で失敗を記録し始めた。

・なぜこうなったのか
・誰が判断を誤ったのか
・この国はどこで道を間違えたのか

この「語り」が、為政者にとって耐え難い脅威だった。


政策の失敗は、修正できる。
人事の失敗は、入れ替えられる。
だが、文化として定着した物語は消えない

物語は、世代を越える。
人々の価値判断の基準になる。
そして、権力の正当性を静かに侵食する。

毛沢東と中国共産党が恐れたのは、
反乱でもクーデターでもない。

「別の世界観が、正当な語りとして共有されること」
そのものだった。


だから、彼らは結論した。

批判者を黙らせても意味はない。
言論を統制しても足りない。

語りを生む源泉そのものを破壊するしかない。

それが、
「旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣」の殲滅だった。


ここで重要なのは、
なぜ「改革」ではなく「破壊」だったのか、という点だ。

理由は単純だ。

文化は、改革できない。
修正もできない。
残っている限り、必ず復元する。

だから、
・寺院を壊す
・書物を焼く
・墓を荒らす
・知識人を吊るす

これは怒りではない。
再起動の試みだった。

国家というOSを入れ替えるために、
文化という古いOSを完全に消去しようとした。

だが、人間は機械ではない。


文化大革命は、部分的には成功した。

  • 多くの文化的連続性が断ち切られ
  • 知識の伝承が途絶え
  • 恐怖が社会に内在化した

だが、完全な成功ではなかった。

文化は消えなかった。
地下に潜っただけだ。

そして地下化した文化は、
歪み、純化し、硬直した形で再浮上する。


現在の中国社会に見られる、

  • 過剰なナショナリズム
  • 歴史の神話化
  • 表現の極端な管理
  • 許可された文化だけが「文化」とされる状態

これらは、
文化大革命が終わっていないことの証拠だ。

破壊は完遂されなかった。
だから、統治は終わらない。


ここで強調しておきたい。

文化大革命は、
「文化を軽視した国」で起きたのではない。

文化が強すぎた国だからこそ起きた。

中華文明は、
宗教でも法律でもなく、
文化そのものが社会を統合してきた文明だ。

その文化を制御できないと悟ったとき、
為政者は最も短絡的で、
そして最も破壊的な手段を選んだ。


この章で見たのは、
文化を管理しようとした文明の、
最も露骨で、最も残酷な失敗例だ。

だが、ここで終わりではない。

暴力を使わず、
血も流さず、
洗練された言葉と制度で
同じ試みを続けている場所がある。

次の章では、
その現在進行形の実験を見ていく。

EU――制度で文化を制御しようとする文明だ。

第4章――EU:制度で文化を制御しようとする文明

EUは、文化を破壊しようとしているわけではない。
少なくとも、当事者たちはそう考えていない。

むしろ逆だ。

EUは、文化を守ろうとしている。
それも、極めて理性的に、洗練された方法で。

ここに、この章の難しさがある。


EUという存在は、そもそも特殊だ。

言語も、宗教も、歴史も異なる国家群が、
「二度と戦争を起こさない」
という一点で束ねられた政治体だ。

この成り立ちからして、
EUにとって文化は、誇りであると同時に火種でもある。

だからEUは、
文化を直接語らない。

代わりに、
制度、規範、権利、ルールの言葉で包み込もうとする。


近年のEUの法整備を並べると、その方向性は明白だ。

  • デジタルサービス法(DSA)
  • デジタル市場法(DMA)
  • 一般データ保護規則(GDPR)
  • 生成AI向けの行動規範
  • 児童保護を名目とした通信監視構想

表向きの目的は、
市場の公正性、個人の尊厳、安全の確保。

いずれも正しい。
異論を挟みにくい。

だが、ここで問うべきは目的ではない。
作用だ。


EUの制度設計は、常にこう動く。

  • リスクを定義する
  • リスクを測定させる
  • リスクを報告させる
  • リスクを削減させる

この枠組みは、
金融や環境では機能する。

しかし、文化に適用した瞬間、
別のものに変質する。


文化は、リスクではない。
だが、リスクとして扱われた瞬間に、
リスクのように振る舞い始める。

  • 不確実な表現
  • 誤解されうる言葉
  • 文脈依存のジョーク
  • 歴史的な比喩

これらは、
「管理が難しい」という理由だけで
制度上の負債になる。

すると、現場はどう動くか。

念のため、やめておこう。


ここで起きているのは、検閲ではない。
萎縮だ。

誰も命令していない。
誰も禁止していない。

だが、
削除・制裁・監査・説明責任のコストを前に、
最も合理的な選択は常に同じになる。

「触れない」


中国とEUの違いは、手段だけだ。

中国は、
「それは許されない」と言う。

EUは、
「それはリスクが高い」と言う。

だが、文化にとっての結果は似ている。

  • 表現が痩せ
  • 余白が消え
  • 安全な定型だけが残る

血を流さない文化大革命
これが、EUの現在地だ。


重要なのは、
EUがこれを“意図していない”ことだ。

EUは、
文化を消そうとしているのではない。

文化を、制度の言葉で完全に理解できると信じている。

ここに、根源的な錯覚がある。

文化は、
理解されない部分によって成立している。

それを

  • リスク評価
  • 透明性
  • 説明責任

に落とした瞬間、
文化は文化であることをやめる。


EUは、宿命的にこの道を選ぶ。

多文化を、
暴力ではなく制度で束ねるために。

それは文明として、
極めて高度で、誠実な選択だ。

だが同時に、
最も危うい選択でもある。


中国は、文化を殴った。
EUは、文化を抱きしめて窒息させる。

どちらも、
文化が生きるために必要な余白を奪う。


では、日本はどうか。

日本は、
命令もしなければ、
制度で縛りもしない。

だが、それでも文化は壊れうる。

次の章では、
最も静かで、最も見えにくい文化破壊を見ていく。

日本――空気による統治だ。

第5章――日本:空気による統治という危険域

日本では、文化は法律で殺されない。
命令でも禁止でもない。

文化は「面倒なもの」として、静かに干される。

これが、日本のやり方だ。


日本は、宗教に寛容な国だ。

キリスト教会も、イスラム寺院も、仏教寺院も、
街の中に並んで存在できる。
教義そのものが問題になることは、ほとんどない。

だが、日本人が重視しているのは、信仰ではない。

作法だ。

  • 公共空間をどう使うか
  • 他人の動線を妨げないか
  • 目立ちすぎていないか
  • 場を乱していないか

これは法律ではない。
だが、日本社会では法より強い拘束力を持つ。


だから、日本で衝突が起きる地点は明確だ。

「信仰の自由」ではなく
「空間の使い方」

「思想」ではなく
「ふるまい」

新宿の歩道で集団祈祷が始まったとき、
問題になるのは教義ではない。

往来を妨げたことだ。

土葬が議論になるときも同じだ。
宗教が悪いのではない。
「この土地の作法と合うのか」が問われている。


この感覚は、
海外から見ると排外主義に見える。

だが、日本人の内側では、
それはもっと単純な言葉で処理されている。

「ルールの中でやってくれ」

この「ルール」は、成文法ではない。
お天道様に恥じないかどうかという、
極めて曖昧な倫理だ。


問題は、ここからだ。

この曖昧な倫理は、
政治や制度と結びついた瞬間、
極めて危険な力を持つ。

なぜなら、
誰も責任を負わなくて済むからだ。


日本における言論統制は、
中国のように明確ではない。
EUのように制度化もされない。

代わりに現れるのは、

  • 著作権
  • 利用規約
  • ガイドライン
  • 配慮要請
  • 自主的判断

これらは中立的な道具に見える。
実際、日常的には正しく使われている。

だが、
ある発言が「触れてはいけない空気」に認定された瞬間、
これらは一斉に同じ方向を向く。


誰かが言う。

「炎上の恐れがある」
「誤解を招く」
「不適切な切り取りだ」
「法的リスクがある」

その瞬間、
話の中身は消える。

残るのは、
消すべきかどうかという議論だけだ。


ここで重要なのは、
誰が命令したのか、ではない。

誰も命令していない。
だからこそ、止められない。


日本は、
文化を否定しない。
文化を攻撃もしない。

ただ、
語らせなくする。

これは穏やかだ。
だが、極めて効果的だ。


EUが制度で文化を制御しようとするなら、
日本は空気で文化を制御する。

中国が暴力で文化を叩いたなら、
日本は沈黙で文化を弱らせる。

そして沈黙は、
外からは見えない。


この章で確認したいのは、これだ。

日本における文化破壊は、
敵意ではなく、善処の連鎖として起きる。

誰も悪者にならない。
誰も責任を負わない。

だからこそ、
最も自覚されにくい。

終章――なぜ文化は、最後に必ず復讐するのか

文化は、反乱を起こさない。
革命を宣言もしない。
要求書も出さない。

だからこそ、甘く見られる。


文化は、抑え込まれた瞬間に反撃するのではない。
否定された瞬間でもない。
嘲笑されたときですらない。

文化が復讐を始めるのは、
「存在しないもの」として扱われたときだ。


中国では、
文化は破壊された。

EUでは、
文化は制度に翻訳された。

日本では、
文化は沈黙させられる。

やり方は違う。
だが、共通点がある。

いずれも、
文化を「管理できるもの」だと誤解した。


文化は、
設計できない。
最適化できない。
リスク評価もできない。

文化とは、
人が人であることを説明しきれなかった残滓だ。

それを文明は嫌う。

なぜなら文明は、
説明できるものだけで
世界を動かしたいからだ。


だが、文明がどれほど成熟しても、
文化を完全に排除することはできない。

なぜなら文化は、
効率や合理性の外側で、
人間を結びつけているからだ。

言葉にならない連帯。
理由のない愛着。
意味不明な習慣。
どうでもいい祭り。

これらは、
文明にとってはノイズだが、
人間にとっては呼吸だ。


だから文化は、
潰されると、形を変える。

  • 抑圧された文化は、原理主義になる
  • 管理された文化は、過激化する
  • 沈黙させられた文化は、陰謀論になる

これが、復讐の正体だ。

文化は、
「分かってもらえないなら、
分からせにいく」方向へ進む。

そのとき、
文明はようやく気づく。

なぜ社会が不安定になるのか分からない

だが、それは遅い。


冒頭に戻ろう。

クリスマスが祝われなくなっている、
という話は、どうでもいい。

本質はそこではない。

説明しなくても許されていたものが、
説明を求められ、
説明できないから排除される。

この流れが、
どこまで進んでいるかだ。


文化は、
神輿のようなものだ。

担ぐ者がいて、
眺める者がいて、
関わらない者がいて、
それでも通り過ぎていく。

全員が担ぐ必要はない。
全員が理解する必要もない。

神輿に説明責任を求めた瞬間、
それはただの障害物になる。


文明がすべきことは、
文化を導くことではない。
正すことでも、管理することでもない。

ただ一つだ。

邪魔だと思っても、
「そこにあること」を許す。

それだけでいい。


神輿は、担がせておけばいい。
危なければ、道を少し空ければいい。
うるさければ、耳を塞げばいい。

だが、
降ろせと命じた瞬間、
文化は必ず、別の形で帰ってくる。

それが、
人類が何度も繰り返してきた
「復讐」という名の、
極めて人間的な帰結だ。