はじめに
「子どもを守るため」と言われれば、誰も反対しづらい。
だがその大義の裏で、国家は“すべての市民の通信”に目を光らせようとしている。
欧州で議論の的となっている「EUチャットコントロール法(Chat Control Law)」は、まさにその典型だ。
この法案が通れば、私たちのメールやメッセージ、写真、通話までが――「AIによる自動スキャン」の対象になる。
児童虐待防止を掲げながら、実際には市民のプライバシーを全面的に監視する仕組みを合法化する。
それは、民主主義社会が最も大切にしてきた「通信の秘密」という防波堤を崩す一撃に他ならない。
“通信スキャン義務”という名の暗号破壊
法案は、通信サービス事業者に対し、
すべての送受信データをAIで自動検査する仕組みを導入せよと命じる。
つまり、E2E(エンド・ツー・エンド)暗号化のチャットも例外ではない。
「暗号化を残してもよいが、検知できるように設計せよ」――。
それは鍵付きの家に“裏口の設置”を強制するようなものだ。
暗号化とは、本来「誰にも見られない権利」を技術で守る仕組みだ。
だがこの法案のもとでは、「すべてのやり取りが潜在的な犯罪予備軍」として監視の対象になる。
犯罪を防ぐために、全員を疑う。
この発想こそが、自由社会の終わりを告げるサインだ。
無差別スキャンの暴走と誤検知の恐怖
AIによる画像認識やテキスト解析が完璧ではないことは、誰もが知っている。
にもかかわらず、何億通もの通信を機械が“違法の可能性あり”と判定する。
そこに人間の目が追いつくはずもなく、誤検知による冤罪やプライバシー侵害は避けられない。
想像してほしい。
父親が幼い娘と入浴している微笑ましい動画を、家族共有クラウドに保存する。
AIがそれを「児童ポルノの疑い」と誤認した瞬間、
警察が踏み込み、人生が壊れる――。
そんな未来が「子どもを守る法律」の名のもとで現実になろうとしているのだ。
政府は監視対象外 ── 民主主義の自殺
さらに滑稽なのは、EU機関自身はこの法律の対象外になっている点だ。
欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は、
Signalの“消えるメッセージ機能”を愛用している。
つまり、自分たちの通信は守りたいが、市民の通信は検査せよという理屈である。
自由を守るべき政府が、率先して自らの免責を確保する。
それは「自分たちは安全な場所から、国民の通信を監視する」という宣言にほかならない。
本当に「児童保護」のためか?
この法案の根拠とされる「児童性的虐待(CSAM)対策」は確かに重要だ。
だが専門家たちは口を揃えて言う――
「スキャン義務化は、真の被害防止にはつながらない」。
犯罪者は匿名ネットやダークウェブなど、監視の及ばぬ場所に移動する。
代わりに失われるのは、善良な市民のプライバシーと自由な発言空間だ。
つまりこの法案は、“犯罪抑止”ではなく“監視国家化”の加速装置になってしまう。
日本への警鐘
いま、日本政府や警察庁も「AIによる監視・検知技術」の導入を進めている。
もし欧州の流れに追随すれば、
“児童保護”を口実に同様のスキャン義務が制度化される危険は十分ある。
日本国憲法第21条2項が守る「通信の秘密」は、民主主義の最後の防波堤だ。
その価値を理解しないまま「海外でやっているから」と模倣すれば、
日本もまた静かに監視社会の扉を開くことになる。
結び ── 私たちは何を守るのか
子どもを守ることは当然だ。
だが「守るために、すべての人を監視する」社会に未来はない。
自由は、最初から奪われるのではなく、
「安全のために少しだけ」という言葉のもとに、少しずつ削られていく。
通信の秘密とは、民主主義そのものの“肺”だ。
息ができなくなった社会で、誰が子どもを守れるというのか。
参照



