国家がAIに“法を教える”ということ
2025年秋、デジタル庁のGitHubにひっそりと公開された一つのリポジトリ。
その名は lawqa_jp。
日本の法令をもとにした「多肢選択式QAデータセット」──つまり、AIが法律を学び、人間の質問に法的根拠をもって答えるための教材だ。
この動きは、単なる技術実験の域を超えている。
国家がAIに対して、「日本語の法的文脈」を正式に教え始めたということ。
それは、行政がAIを統制の対象から協働の相手へと認識を変えた瞬間でもある。
“法を理解するAI”という文明的試み
法律とは、人間社会の「言語で書かれたルールブック」だ。
だが、その文言は人間にすら曖昧だ。
条文は膨大で、例外は無限に存在する。
そんな世界にAIを連れてくるには、まず“学び方”を整えねばならない。
lawqa_jpは、そのための日本初の公的データ基盤である。
法律という抽象の森を、AIが道を見失わずに歩けるようにするための道標。
法令データをQA形式に変換するということは、
「人間の思考プロセスを、AIが解釈可能な構造に写し取る」試みである。
つまり、AIに“法の言語体系”を理解させようという挑戦だ。
行政が“AIの言語”を話し始めた
行政機関はこれまで、「AIを導入する側」だった。
だが、今や「AIに語りかける側」に変わりつつある。
lawqa_jpの背後には、“公共データをAIに読ませるための制度化”という構想がある。
これは単なるIT化ではない。
デジタル庁が自らコードを公開し、GitHubで議論を開くという事実こそ、
行政が初めてAIとの共通言語を獲得しようとしていることを意味している。
かつて行政文書は人間にしか読めない“紙の呪文”だった。
それをAIにも理解できる形に翻訳しようとするこの動きは、
まさに「言葉の民主化」であり、AI時代の“行政倫理”の始まりでもある。
法の形式知が“共有資産”へと変わるとき
法という知識は、これまで専門家の独占領域だった。
だが、lawqa_jpはそれをAIにも共有可能な構造として開いた。
それは、法学者とエンジニア、行政官と市民が同じデータに触れ、
“解釈を共創する”という新しい公共空間の誕生でもある。
言い換えれば、これは「国家の知能オープン化」だ。
法令をAIが読むようになれば、行政判断の透明性も次の段階に入る。
AIは、単なる自動化の道具ではなく、「制度の鏡」として機能し始めるのだ。
AIに“正義”を教える難しさ
もちろん、この試みは理想主義だけでは済まない。
AIが条文を覚えることと、法の精神を理解することはまったく別物だ。
法の世界には、文言よりも人間の倫理や歴史が重く響く場面がある。
AIが法令を理解しても、それをどう適用するかには判断と責任が伴う。
ゆえに、AIに「正義」を教えるとは、人間自身が再び倫理を学び直すことでもある。
lawqa_jpの意義は、AIに知識を与えることではなく、
人間が「AIにも通じる正義の言葉」を再定義する契機となる点にある。
AIと行政の“相互翻訳時代”へ
行政がAIと対話を始めた──この出来事の本質はそこにある。
AIが法を学ぶということは、同時に行政がAIの思考様式を学ぶということでもある。
それは、「制度が知能化する」という新しい文明段階の入り口だ。
国家がAIを恐れるのではなく、共に制度を作り変えていく。
その最初のコードが、GitHub上の lawqa_jp に刻まれた。
そして、我々がAIに問う最初の法的問いは、
もしかするとこうなるのかもしれない。
――「あなたに、正義を教えるのは誰か?」
AIが法を学ぶとき、人間はその背後で「誰が教科書を書いているのか」を見失ってはならない。

