OpenAIが発表した動画生成モデル「Sora 2」は、映像と音声を統合した次世代AIとして大きな話題を呼んでいる。
だがその一方で、日本のクリエイティブ業界では「主要な権利者に事前連絡がなかった」という報道が波紋を広げた。
これは単なる広報の手落ちではない。AIが文化と法制度の狭間を突き抜けて進化してしまった結果としての、象徴的な出来事だ。
“通知されなかった”という衝撃
米国の主要スタジオ──Disney、Pixar、Netflixなど──には、Sora 2の実装前に説明が行われていたとされる。
一方、日本や欧州のIP保有者には正式な通告がなかった。この“差”は偶然ではない。
背景には、アメリカが採用する「フェアユース型のAI訓練文化」と、日本・EUが持つ「許諾前提型の権利文化」という、根本的な構造の違いがある。
つまり、Sora 2をめぐる騒動は、単なる通知漏れではなく「文化の前提条件が違うまま技術が先に進んでしまった」現象なのだ。
文化が違えば、AIの倫理も変わる。
理想は語られた。だが制度はまだ存在しない。
サム・アルトマンは自身のブログ「Sora Update #1」で、権利者へのコントロール付与と収益分配の仕組みを明確に約束した。
権利者が「使っていい」「使わないでほしい」「条件付きで許可」といった細分化された設定を行えるようにする──これは生成AI業界にとって画期的な宣言だ。
しかし現実には、権利者を識別し、国ごとの法制度を横断的に管理し、さらに収益配分まで追跡する技術基盤はまだ存在しない。
理想は示された。だがそれを受け止める制度が、どの国にも整っていない。
“権利を尊重する意志”と“通知の欠落”の間には、意図ではなく構造のギャップがある。
そこを埋めるための議論が、いま世界中で始まりつつある。
二次創作文化が先に示した「曖昧な共存モデル」
筆者は以前の記事「二次創作から生成AIへ──権利・創作・共存の半世紀」で、日本が独自に築いてきた“黙認と節度”の文化を紹介した。
アニメや漫画のファン活動は、厳密には権利侵害のグレーゾーンに属しながらも、クリエイターとファンの信頼関係の上に成り立ってきた。
この曖昧な共存モデルこそ、AI時代の権利制度が参考にすべき構造である。
完全な禁止でも、完全な自由でもなく、「節度を前提とした共創」。
AIが文化に参加する以上、人間社会の“寛容のデザイン”を制度の中に埋め込む必要がある。
禁止でも容認でもない。「節度」を設計する時代へ。
「事後通告AI」と法整備の分岐点
OpenAIやGoogleが採用する「先に公開、あとで修正」の手法は、インターネット黎明期の“Move Fast and Break Things”文化の延長線上にある。
だがAI時代では、破壊される対象が単なるコードではなく「文化資産」そのものである。
日本やEUの「事前審査型」と、アメリカの「事後修正型」。
どちらが創造を育むのか、どちらが社会的信頼を維持できるのか──この分岐点に私たちは立っている。
スピードと信頼。AI時代には、両立を設計しなければならない。
結語──それでも世界はOpenAIを見る
結語──それでも世界はOpenAIを見ている
今回のSora 2をめぐる議論は、技術の是非を越えたところで火がついた。
他の生成モデルでも似た表現は可能だったのに、批判の矢が向いたのはOpenAIだけだった。
それは、いまだ世界がこの企業を「AIの代表者」と見ている証でもある。
ChatGPTの登場以来、OpenAIはAIの希望と不安を同時に背負う存在になった。
だからこそ、どんな動きも社会の鏡として拡大される。
Sora 2の炎上も、失策というより「注目される側の宿命」──いわば有名税の延長線上にある。
一方で、法の世界も静かに動いている。
アメリカではAI訴訟を新たな市場と見なす動きが生まれ、
著作権、肖像権、ブランド権──いずれも未確定のまま、
“前例を作るための訴訟”が次々に準備されている。
それは正義の追及というより、制度を早く固めたいという焦りの裏返しでもある。
AIがもたらした変化の速度に、法律が追いつけていないのだ。
そしてOpenAIは、そうした渦の中心に立たされている。
非難も称賛も、同じ一点に集まる。
それは同時に、世界がいまだこの企業を通して「AIの未来」を見ようとしているということだ。
生成AIの進化を止めることはできない。
けれど、文化を壊さずに進化させる制度は設計できる。
その役割を誰が担うのか──その問いに向き合う時期が、もう来ている。
本稿は、前回の記事「二次創作から生成AIへ──権利・創作・共存の半世紀」の続編です。


