シシュポスのOS ─ 政治が穿つ穴を、エンジニアの血で埋める不条理

シシュポスのOS ─ 政治が穿つ穴を、エンジニアの血で埋める不条理 TECH
シシュポスのOS ─ 政治が穿つ穴を、エンジニアの血で埋める不条理

現代のシリコンバレーには、現代版のギリシャ神話が実在する。

神々の王たるゼウス(規制当局)は、一国の繁栄を支える巨人に「市場の独占」という罪を着せ、一つの永劫不変の刑罰を与えた。それは、巨大な岩(セキュリティ)を山頂へ押し上げる作業だ。しかし、頂上に達する直前、ゼウスは「人権」や「自由な競争」という名の雷を落とし、岩を麓まで突き落とす。

企業は、守れと言われ、壊せと言われ、そして壊れたら全てを責められる。この終わりのない「シシュポスの苦行」こそが、今のGoogle、そしてBIG TECHが置かれた残酷な現状である。

第1幕:城壁を壊せ、そして「守れ」と命じよ

EU(欧州連合)が主導するデジタル市場法(DMA)は、まさにこの不条理の象徴だ。

彼らは、Googleが長年築き上げてきた「キュレーションされたエコシステム」を、独占の象徴として敵視する。サイドローディング(野良ストア)の開放を法律で義務付ける。これは、「伝染病を防ぐために検疫所を設けている城壁を、自由のために取り壊せ」と言っているに等しい。

エンジニアが「ARPスプーフィング」や「ゼロデイ脆弱性」と戦い、一歩ずつ積み上げてきたセキュリティの岩は、法案の一行で無効化される。門が開かれれば、悪意あるコードが「自由」という偽造パスポートを持って堂々と入城してくる。そして、その結果として起きた被害の責任は、門を壊した政治家ではなく、門を管理していた企業に押し付けられるのだ。

第2幕:仮想化という「魔法の包帯」

エンジニアたちは絶望しない。いや、絶望する暇さえ与えられない。

法律によって開けられた致命的な穴を塞ぐため、彼らは「仮想化」というさらに高度で、複雑で、コストのかかる魔法を使い始める。OSのコアを守るために、アプリを一つひとつサンドボックス(砂場)に閉じ込め、二重三重の実行レイヤを重ねる。

本来、その膨大な演算リソースと開発工数は、AIによるがん治療の支援や、次世代のイノベーションに使われるべきものだった。しかし、現代の最先端知能は、「政治が意図的に作った脆弱性を、いかにユーザーに気づかせずに隠蔽するか」という、後ろ向きな防衛戦、いわば「魔法の包帯」を巻き続ける作業に浪費されている。

第3幕:人権という名のバックドア ─ 繰り返される失敗

EUの無理解は、今に始まったことではない。

かつて彼らが産み落とした「Cookie同意バナー」を見ればいい。世界中のウェブサイトを「誰も読まない形式主義」で埋め尽くし、UXを破壊した挙句、フィッシング詐欺に新たな隙を与えただけだった。あるいは、USB-Cの強制。彼らは「今の技術」を法律で固定することで、未来のイノベーションをゆりかごの中で絞め殺した。

そして今、彼らは「チャット・コントロール」法案で暗号化の数学的理法を破壊しようとし、「透明化」という美名の下に、体制維持のためのバックドアを要求している。

「選択の自由」という耳障りの良い言葉で、初心者を「検疫されていない戦場」へ突き落とす無責任さ。政治家が「人権」を叫ぶ裏で、サイバー犯罪者が祝杯を挙げているのが現実だ。

結び:理法なき「神話」の終焉

Googleという巨人は、今この瞬間もシシュポスのように岩を押し上げている。転げ落ちる岩を、仮想化や暗号化という「知恵」で受け止め、山の中腹で必死に食い止めている。

しかし、エンジニアリングの理法を無視した法整備が続く限り、いつかその岩は砕け散るだろう。

我々に必要なのは、空疎な人権論ではない。「技術に対する敬意(リスペクト)」と、「構造を理解する理性」である。

「生兵法(法律)」が「理法(エンジニアリング)」を追い越したとき、ネットの平穏は終わる。その時、私たちは初めて気づくのだ。山頂で岩を支え続けていた巨人が、いかに慈悲深い存在であったかを。

EU事件簿

1. 「チャット・コントロール(Chat Control)」法案の狂気

  • 事件の内容: EUが児童ポルノ対策を名目に、すべての暗号化通信(WhatsAppやSignalなど)にバックドアを設け、全市民のメッセージをAIでスキャンしようとしている計画。
  • 論理的補強: 「人権」を標榜するEUが、実は「エンドツーエンド暗号化(E2EE)」という数学的・技術的な鉄壁のプライバシーを法律で破壊しようとしている事実。
  • ポイント: 「子供を守るため」という聖域の言葉を使い、全市民を「潜在的な容疑者」として監視下に置こうとするその姿は、暗黒時代の検閲官そのもの。

2. 「Cookie同意バナー」という史上最大の無能な発明

  • 事件の内容: GDPR(一般データ保護規則)の結果、世界中のウェブサイトが「同意ボタン」で埋め尽くされた件。
  • 論理的補強: 結局、誰も内容を読まずに「OK」を押すだけの形式主義を生み出し、逆にユーザーの利便性を損なわせ、詐欺サイトがそのバナーを悪用する隙を作った。
  • ポイント: 「官僚が考えたプライバシー」が、いかに現場のUX(ユーザー体験)を破壊し、実質的な安全に寄与しないかの生きた証拠。

3. 「USB-C強制」というイノベーションの去勢

  • 事件の内容: 全てのモバイル機器の充電端子をUSB-Cに統一させた規制。
  • 論理的補強: 短期的には便利だが、将来、より優れた次世代端子(あるいは完全ワイヤレス)が登場した際、EUの法律を書き換えない限り「違法」となる。
  • ポイント: 「今の技術が終着点だ」という傲慢な思い込み。彼らは「法律の書き換え速度」が「技術の進化速度」に勝てないという理法を理解していない。

4. ブラウザ「選択画面」の強要が生んだ脆弱性

  • 事件の内容: かつてMicrosoftに行わせ、現在はDMA(デジタル市場法)でGoogle等にも強要している「ブラウザ選択画面」。
  • 論理的補強: これにより、セキュリティアップデートが滞りがちなマイナーなブラウザや、野良ブラウザを初心者が選ぶリスクを増大させた。
  • ポイント: 「選択の自由」という耳障りの良い言葉で、初心者を「検疫されていない戦場」へ突き落とす無責任さ。