正義とは何か? ─ 未来の人々は、私たちの正義を笑うだろうか

正義とは何か? ─ 未来の人々は、私たちの正義を笑うだろうか TECH

正義のために人は死ねる

1804年7月11日。

二人の男が向かい合っていた。

場所はニュージャージー州ウィーホーケン。

朝の静かな崖の上だった。

二人は拳銃を持っていた。

決闘である。


現代人から見れば理解しがたい。

なぜそんなことをするのか。

警察を呼べばいい。

裁判をすればいい。

そもそも戦わなければいい。

そう思うだろう。


しかし彼らは本気だった。

一人はアメリカ建国の功労者だった。

もう一人は副大統領だった。

どちらも教養があり、

国家の未来を考える知性を持った人間だった。


結果は一人の死。

生き残った男も、その後の人生を失った。

誰も幸せにならなかった。


それでも彼らは引き返さなかった。

なぜか。

当時の社会にとって、

名誉を守ることは命より重要だったからである。


ここで一つの疑問が生まれる。

彼らは愚かだったのだろうか。


私はそうは思わない。

むしろ彼らは、

その時代の正義に忠実だった。


私たちは歴史を振り返ると、

過去の人々を不思議に思う。

なぜ魔女狩りをしたのか。

なぜ奴隷制を認めたのか。

なぜ決闘などしたのか。


だが、その問いはそのまま未来へ返ってくる。

百年後の人々は、

現代の私たちを見て何と言うだろう。


なぜそんな働き方をしていたのか。

なぜそんな情報空間を放置していたのか。

なぜそんな価値観を当然だと思っていたのか。


私たちは過去の正義を笑う。

そして未来の人々は、

今の私たちの正義を笑うかもしれない。


正義とは何だろうか。

善悪を決める絶対的な基準なのだろうか。

それとも、

時代ごとに姿を変える価値観の名前なのだろうか。


本稿では、

宗教、

国家、

名誉、

法律、

そしてAIに至るまで、

人類が追い求めてきた「正義」の歴史を辿りながら、

私たちが今どこに立っているのかを考えてみたい。

第1章 正義はどこから来たのか

人類はいつから正義を語るようになったのだろう。

実のところ、その起源を正確に知る者はいない。

文字が生まれるよりも前から、

人間は集団を作って生きていた。

そして集団が生まれた瞬間から、

ある問題が発生する。


どうすれば仲間同士で殺し合わずに済むのか。


一人で生きるなら単純だ。

気に入らない相手から離れればいい。

しかし集団ではそうはいかない。

狩りをする者。

火を守る者。

子どもを育てる者。

それぞれが役割を持つ。


誰かが勝手なことを始めれば、

集団全体が危険になる。

食料が足りなくなる。

外敵に襲われる。

冬を越せなくなる。


そこで人類は、

ある便利な仕組みを発明した。


ルールである。


嘘をつくな。

盗むな。

仲間を裏切るな。

弱い者を守れ。

年長者を敬え。


その内容は地域によって違う。

時代によっても違う。

だが目的は共通していた。


集団を維持すること。


ここで重要なのは、

正義の出発点が善悪ではなかったことだ。


生き残ることだった。


現代の私たちは、

正義という言葉を聞くと、

高尚な倫理を想像する。

公平。

平等。

人権。

自由。


しかし人類最初期の正義は、

もっと泥臭い。


裏切るな。

逃げるな。

働け。

協力しろ。


要するに、

集団が崩壊しないための運用ルールだった。


だから正義は普遍ではない。

環境によって変わる。


砂漠で生きる部族と、

森林で生きる部族では、

必要なルールが違う。

農耕社会と遊牧社会でも違う。

島国と大陸国家でも違う。


それぞれが、

それぞれの生存戦略を正義と呼んだ。


考えてみれば当然である。


氷河期を生き延びる人類にとって、

「個人の自由」は重要ではなかった。

共同体の生存が重要だった。


逆に現代社会では、

個人の権利が重視される。

それが現代の生存戦略だからだ。


つまり正義とは、

人類がその時代を生き抜くために採用した価値観の集合体とも言える。


もちろん当時の人々は、

そんなふうには考えていなかった。


彼らは本気で信じていた。

これが正しい。

これが善だ。

これに従うべきだ。


だが歴史を振り返ると、

その「正しさ」は何度も書き換えられている。


ある時代の美徳が、

別の時代では悪徳になる。

ある共同体の正義が、

別の共同体では罪になる。


正義は石に刻まれた真理ではない。

むしろ生き物に近い。

環境に適応しながら姿を変える。


そして人類はやがて、

その正義に絶対的な保証人を求めるようになる。


なぜこのルールに従うべきなのか。

なぜ善悪が存在するのか。

誰がそれを決めたのか。


その問いに対し、

人類が最初に見つけた答えは、

国家でも法律でもなかった。


神だった。

第2章 神が正義を保証していた時代

人類はルールを作った。

しかし新しい問題が生まれた。


なぜ従わなければならないのか。


共同体が大きくなるほど、

この問いは深刻になる。

小さな部族なら顔が見える。

裏切れば明日には報復される。


しかし都市が生まれ、

国家が生まれ、

何万人、何十万人もの人間が集まるようになると、

それだけでは足りなくなった。


誰も見ていない場所で悪事を働いたらどうなるのか。

権力者がルールを破ったらどうなるのか。

死んでしまったら裁きを受けないのか。


人類はこの問題を解決するために、

壮大な発明を行った。


神である。


もちろん宗教そのものは、

単なる社会装置ではない。

信仰を持つ人々にとって、

神は現実そのものだった。


しかし歴史を振り返ると、

宗教にはもう一つの重要な役割が見えてくる。


正義の保証人。


という役割である。


王は間違える。

裁判官も間違える。

人間は裏切る。


だが神は間違えない。


少なくとも当時の人々はそう考えた。


だから法律よりも神意が優先された。

王権も神によって正当化された。

善悪も神によって定義された。


人々は神を恐れた。

そしてその恐れは、

共同体を維持する力になった。


現代人から見ると、

それは不自由に見えるかもしれない。


だが当時の世界を想像してみてほしい。


警察は存在しない。

監視カメラもない。

DNA鑑定もない。

全国的な戸籍制度すらない。


そんな社会で秩序を維持するには、

「神が見ている」

という考え方は驚くほど強力だった。


実際、

宗教は何千年にもわたって巨大な文明を支えた。


人類史の大半において、

正義とは神の意思だったのである。


しかしここで一つの問題が発生する。


神は直接話さない。


神の意思を解釈するのは人間である。


そして人間は間違える。


歴史はその例で満ちている。


異端審問。

魔女裁判。

宗教戦争。

十字軍。


現代人はそれらを見て首をかしげる。


なぜそんなことをしたのか。

なぜ罪のない人々を処刑したのか。

なぜ殺し合ったのか。


だが当時の人々にとって、

それは正義だった。


むしろ逆である。


彼らは悪を憎んだからこそ行動した。

神を信じていたからこそ戦った。

共同体を守ろうとしたからこそ裁いた。


ここに正義の危うさがある。


悪意だけが人を傷つけるわけではない。


善意もまた、

人を傷つける。


いや、

時として善意の方が恐ろしい。


悪人は自分が悪いことをしている自覚を持つことがある。

しかし正義を確信した人間は違う。


自分は正しい。


そう信じている。


だから止まらない。


歴史上の大虐殺。

宗教戦争。

思想弾圧。

粛清。

革命。


その多くは、

悪人によってではなく、

正義を信じた人々によって実行された。


これは不快な事実である。


私たちは悪人が世界を壊したと思いたい。

その方が安心できる。


しかし歴史は、

もっと厄介なことを教えている。


世界を動かしてきたのは、

しばしば善人だった。


そして善人たちは、

自らの正義を疑わなかった。


正義とは人類を支える力だった。

しかし同時に、

人類を傷つける力でもあった。


その矛盾を抱えたまま、

人類は次の時代へ進む。


神の時代が終わりを迎える。


そして人々は、

新しい正義の保証人を見つける。


理性である。

第3章 理性は正義になれるのか

神が正義を保証していた時代は長かった。

あまりにも長かった。


だから人々は長い間、

別の可能性を想像しなかった。


正義は神が決める。

善悪は神が決める。

人間は従う。


それが当たり前だった。


しかし時代は変わる。


科学が発展する。

航海技術が発達する。

印刷技術が普及する。


人々は少しずつ気づき始める。


神ではなく、

人間自身が考えてもいいのではないか。


後に啓蒙思想と呼ばれる流れである。


理性。

科学。

自由。

平等。


それまで神が担っていた役割を、

人間自身が引き受けようとした。


人類史における大転換だった。


いま振り返れば、

それは驚くほど大胆な思想だった。


数千年にわたり、

宇宙の中心には神がいた。


その神を脇へ置き、

人間が中心に座ろうとしたのである。


もちろん反発もあった。

混乱もあった。

革命も起きた。


しかし流れは止まらなかった。


そして近代国家が誕生する。


法律が整備される。

議会が作られる。

選挙が始まる。

憲法が制定される。


人類は宣言する。


正義は神ではなく、

理性によって作れる。


この思想は圧倒的な力を持っていた。


なぜなら宗教が違っても共有できたからである。


キリスト教徒でもいい。

イスラム教徒でもいい。

無神論者でもいい。


理性なら全員が使える。


そう考えられた。


そして実際、

この思想は成功した。


法治国家。

市場経済。

民主主義。

近代科学。


現代文明の多くは、

この時代の遺産である。


しかし。


ここで奇妙なことが起きる。


法律が整備された。

裁判所もある。

国家もある。


それなのに、

人々はまだ命を賭けていた。


1804年。

アメリカ。


法律では決闘は禁止されていた。


それでも二人の男は拳銃を持って向かい合った。


なぜか。


名誉である。


理性が勝利したはずだった。

法律も存在していた。

国家も存在していた。


しかし人間は、

法律だけでは動かなかった。


共同体からどう見られるか。

仲間からどう評価されるか。

卑怯者と思われないか。


そうした価値観が、

依然として強い力を持っていた。


つまり、

神が退場しても、

正義は一つにならなかった。


法律の正義。

社会の正義。

名誉の正義。


複数の正義が共存し始めたのである。


ハミルトンとバーの決闘は、

単なる悲劇ではない。


近代が抱えた矛盾そのものだった。


国家は

「決闘するな」

と言う。


社会は

「決闘しない男は臆病者だ」

と言う。


どちらも正義だった。


そして二つの正義が衝突した結果、

一人の人間が死んだ。


ここで私たちは気づく。


正義の問題は、

何が正しいかではない。


誰が正しさを定義するのかという問題なのだ。


神の時代には、

答えは比較的単純だった。


神である。


だが神が退場した後、

その椅子は空席になった。


国家が座ろうとした。

法律が座ろうとした。

科学が座ろうとした。

世論が座ろうとした。


そして人類は、

その空席を巡る長い争いを始める。

第4章 正義は作られる

人類は神の代わりを探した。


国家。

法律。

科学。

世論。


どれも魅力的だった。


国家は秩序をもたらした。

法律は公平をもたらした。

科学は客観性をもたらした。

世論は民主性をもたらした。


しかし、

どれも神にはなれなかった。


なぜなら、

それらはすべて人間が作ったものだからである。


ここで私たちは、

少し不都合な事実と向き合うことになる。


正義は発見されるものではない。


作られるものでもある。


もちろん、

この言葉は誤解を招きやすい。


正義が嘘だと言いたいわけではない。

正義が無価値だと言いたいわけでもない。


むしろ逆だ。


人類は真剣だった。


あまりにも真剣だった。


だからこそ、

その時代ごとの正義を本気で信じた。


例えば奴隷制。


現代では到底受け入れられない。


しかし数百年前、

多くの社会はそれを当然視していた。


それどころか、

経済のため。

秩序のため。

文明のため。


そうした理由によって正当化されていた。


優生学もそうである。


現代人には危険思想に見える。


しかし20世紀初頭、

それは最先端科学だった。


知識人も。

政治家も。

学者も。


人類をより良くするという理想を掲げていた。


そこに悪意はなかった。


少なくとも彼ら自身は、

そう信じていた。


禁酒法も同じだ。


酒が社会を破壊する。

家庭を壊す。

犯罪を増やす。


だから禁止するべきだ。


その主張自体には一定の合理性があった。


しかし結果はどうだったか。


歴史は知っている。


正義は常に成功するわけではない。


むしろ正義だからこそ、

失敗した時の被害は大きくなる。


ここで重要なのは、

人類が愚かだったという話ではない。


むしろ逆である。


その時代の人々は、

私たちと同じくらい賢かった。


同じくらい真面目だった。


同じくらい善意を持っていた。


それでも間違えた。


いや、

だからこそ間違えた。


自分たちは正しい。


その確信があったからである。


正義は人を動かす。


戦争を起こす。

革命を起こす。

国家を作る。

文明を発展させる。


しかし同時に、

正義は人を盲目にもする。


ここに、

正義という概念の最も厄介な性質がある。


悪意は疑われる。


だが正義は疑われない。


なぜなら、

正義を掲げる人は、

自分が正しいと信じているからである。


そして歴史は、

何度も同じ光景を繰り返してきた。


人類は正義を作る。

その正義を信じる。

やがて正義は制度になる。

次の時代の人々がそれを否定する。

新しい正義が生まれる。


振り子はいつも行き過ぎる。


そして正義もまた、

例外ではなかった。


ここまで来ると、

読者は不安になり始める。


もし過去の正義が何度も書き換えられたのなら、

今の私たちの正義はどうなのだろう。


その問いは避けられない。


そしてその問いを最も強く突きつけてくるのが、

実は政治でも宗教でもない。


私たちが毎日見ている物語だった。

第5章 勧善懲悪の終わり

私たちはいつから、

正義に迷うようになったのだろう。


昔話の世界では、

そんなことは起きなかった。


桃太郎は鬼を退治する。

水戸黄門は悪代官を懲らしめる。

正義は勝つ。

悪は敗れる。


観客は迷わない。


誰が正しいのか。

誰が悪いのか。

最初から分かっている。


だから安心して物語を楽しめる。


勧善懲悪。


それは物語の形式であると同時に、

社会の価値観そのものでもあった。


善悪の基準が共有されていたのである。


もちろん現実はもっと複雑だった。


だが少なくとも、

人々は同じ方向を向いていた。


正義とは何か。

その答えを、

ある程度共有できていた。


しかし現代は違う。


例えば忠臣蔵。


かつては忠義の物語だった。


主君のために命を懸ける。

仲間のために耐え忍ぶ。

最後は見事に仇討ちを果たす。


多くの日本人が感動した。


ところが現代人は、

少し違う見方をする。


なぜ復讐を肯定するのか。

なぜ集団で襲撃するのか。

法に委ねるべきではないのか。


どちらが正しいのだろう。


実はその問い自体が、

時代の変化を示している。


昔は問われなかった。


正義は一つだったからである。


今は問われる。


正義が複数あるからである。


敵にも事情がある。

加害者にも背景がある。

善人にも欠点がある。


現代の物語は、

勧善懲悪を避ける傾向が強い。


なぜなら観客が、

単純な正義を信じなくなったからだ。


そして日本には、

その変化を示す面白い痕跡が残っている。


言葉である。


私たちは今でも言う。


腹を括る。

腹を割る。

腹が据わる。

自腹を切る。


何気ない日常語だ。


しかしよく考えると不思議である。


なぜ腹なのか。


現代人は腹を切らない。


だが言葉だけは残った。


かつて武士にとって、

責任とは身体で示すものだった。


逃げない。

ごまかさない。

言い訳しない。


覚悟を示す。


それが美徳だった。


その価値観は消えた。


切腹する人はいない。

武士もいない。


それでも私たちは、

腹を括れない人をどこか信用しない。


責任から逃げる人を好まない。


言葉だけが残った。


まるで化石のように。


ここで思い出してほしい。


アメリカの決闘である。


名誉のために命を懸けた男たち。


日本の切腹と、

アメリカの決闘。


文化も宗教も違う。


だが根底は驚くほど似ている。


命より大切なものがある。


そう信じていた。


現代人は笑うかもしれない。


しかし百年後の人々は、

現代の私たちを笑うかもしれない。


なぜそんな働き方をしていたのか。

なぜそんな競争をしていたのか。

なぜそんな情報空間で生きていたのか。


私たちは過去の正義を笑う。


そして未来の人々は、

今の私たちの正義を笑う。


正義が変わったのではない。


変わり続けているのである。


そしてその変化を、

かつてない速度で加速させたものがある。


インターネットである。

第6章 SNSが増幅した無数の正義

かつて、

正義は比較的少なかった。


もちろん異論は存在した。

争いもあった。

思想の対立もあった。


だが多くの人々は、

同じ新聞を読んでいた。

同じテレビを見ていた。

同じ教科書で学んでいた。


少なくとも、

何が正しいかを議論するための土台は共有されていた。


ところがインターネットは、

その前提を変えてしまった。


情報は民主化された。


誰もが発信できるようになった。


これは素晴らしい変化だった。


国家だけが語る時代ではない。

新聞だけが語る時代でもない。


無数の声が表に出てきた。


今まで見えなかった問題が見えるようになった。


沈黙していた人々が語り始めた。


多様な価値観が可視化された。


これは間違いなく進歩だった。


しかし同時に、

別の現象も起きた。


正義が増えすぎた。


かつては一つだった物語が、

百になり、

千になり、

万になった。


そして人々は、

自分が信じる物語の中で生きるようになった。


同じ出来事を見ても、

受け取り方がまったく違う。


ある人にとっては正義。

別の人にとっては悪。


しかも双方とも、

本気でそう信じている。


ここが重要である。


昔の対立は、

利害の対立だった。


今の対立は、

正義の対立になりやすい。


利害は交渉できる。


しかし正義は交渉しにくい。


なぜなら、

正義とは譲れないものだからである。


そしてSNSは、

その性質を増幅する。


怒りは拡散する。

断言は拡散する。

敵味方を分ける言葉は拡散する。


複雑な説明は拡散しない。


「場合による」は弱い。


「絶対に正しい」は強い。


アルゴリズムにとっても、

その方が都合が良い。


結果として、

人々はますます確信する。


自分たちは正しい。


相手が間違っている。


そして気づかない。


相手もまったく同じことを考えていることに。


ここで歴史は奇妙な円を描く。


神の時代、

正義は一つだった。


近代の時代、

理性によって共通の正義を探そうとした。


そして現代。


正義は再び無数に分裂した。


だが今回は違う。


神はいない。


全員が自分の正義を持っている。


そして誰も、

最終的な保証人ではない。


それは自由である。


しかし同時に、

不安でもある。


人類は長い間、

誰かに正義を決めてもらっていた。


神。

王。

国家。

法律。

テレビ。

新聞。


だが今、

その椅子は空いている。


誰も座っていない。


だから私たちは、

自分で判断しなければならない。


それは成熟かもしれない。


だが、

とても疲れる。


だから人は、

新しい保証人を探し始める。


正義を決めてくれる誰かを。


そして現代には、

その候補が現れ始めている。


AIである。

第7章 AI時代の正義

AIは正義を持たない。


少なくとも、

私たちはそう考えている。


AIは感情を持たない。

信仰を持たない。

思想を持たない。


入力された情報を処理し、

確率的に応答を生成する。


それだけである。


だからAIは中立だ。


そう言われることがある。


しかし本当にそうだろうか。


AIそのものは中立かもしれない。


だが、

AIが学ぶ世界は中立ではない。


歴史。

文化。

法律。

宗教。

倫理。


人類が積み上げてきた価値観の上で、

AIは訓練される。


つまりAIは、

人類が正しいと思ってきたものを学習している。


逆に言えば、

人類が間違ってきたものも学習している。


ここで重要なのは、

AIが善悪を判断するかどうかではない。


どの価値観を参照するのか。


という問題である。


例えば、

ある国では正しいことが、

別の国では許されない。


ある時代では称賛されたことが、

別の時代では非難される。


人類は何千年も、

その答えを巡って争ってきた。


そして今、

私たちは奇妙な状況に立っている。


歴史上初めて、

人類全体の知識を参照できる存在が現れた。


AIである。


だがAIは神ではない。


これは極めて重要である。


神は答えを与えた。


AIは答えを生成する。


似ているようで、

まったく違う。


神の言葉は絶対だった。


AIの言葉は確率である。


それでも人は、

AIの答えに権威を見出し始める。


なぜなら便利だからだ。


検索するより速い。

本を読むより速い。

専門家を探すより速い。


しかも、

それらしく聞こえる。


だから私たちは、

つい尋ねてしまう。


何が正しいのか。

どう生きるべきか。

どちらを選ぶべきか。


その姿は少し不思議である。


人類は神の時代を終えた。

理性の時代を作った。

個人の時代を迎えた。


そして今、

再び誰かに答えを求めている。


もちろんAIは神ではない。


だが私たちの方が、

無意識に神の代役を探しているのかもしれない。


ここで思い出してほしい。


この物語は、

正義の歴史だった。


部族の正義。

神の正義。

国家の正義。

法律の正義。

世論の正義。


そして今、

AIという新しい存在が現れた。


しかし変わらないものがある。


それは、

人類が常に正義の保証人を求めてきたことだ。


誰か決めてほしい。


何が正しいのか。

何が間違っているのか。


誰か保証してほしい。


自分たちは正しいのだと。


だが歴史は、

あまり希望のない事実を教えている。


神も間違えた。

いや、

正確には、

神を解釈した人間が間違えた。


国家も間違えた。

法律も間違えた。

科学も間違えた。

世論も間違えた。


ならばAIだけが間違えないと、

どうして言えるのだろう。


そしてその問いは、

AIへの問いではない。


私たち自身への問いである。


人類は本当に、

正義の保証人を必要としているのだろうか。


それとも、

誰も保証できないという事実を受け入れるべきなのだろうか。

第8章 私たちは何を学ぶべきか

正義とは何だろう。


ここまで長い旅をしてきた。


部族の掟を見た。

神の時代を見た。

革命を見た。

決闘を見た。

切腹を見た。

SNSを見た。

AIを見た。


しかし結局のところ、

正義の定義は見つからなかった。


いや、

見つからなかったのではない。


何度も見つかっていた。


そして何度も失われていた。


歴史とは、

その繰り返しだった。


ある時代の人々は、

正義を見つけたと思った。


神の中に。


国家の中に。


科学の中に。


世論の中に。


しかし時間が経つと、

その確信は崩れる。


新しい時代が訪れる。


そして人々は再び探し始める。


まるで振り子のように。


ここで、

私たちは少し不思議な事実に気づく。


歴史上、

最も危険だった人々は、

必ずしも悪人ではなかった。


むしろ、

自分は正しいと確信していた人々だった。


正義を疑わなかった人々だった。


その確信が、

戦争を起こした。


粛清を起こした。


迫害を起こした。


そして、

時に文明そのものを動かした。


正義は力である。


人を動かす力だ。


だからこそ、

正義は恐ろしい。


私たちは悪を警戒する。


しかし本当に警戒すべきなのは、

自らの正義かもしれない。


もちろん、

正義を捨てろと言いたいわけではない。


そんなことはできない。


人は価値観なしには生きられない。


何が大切か。

何を守りたいか。

何を許せないか。


誰もが正義を持っている。


問題はそこではない。


問題は、

自分の正義が永遠だと思い込むことだ。


百年前の人々もそうだった。


千年前の人々もそうだった。


そして私たちも、

同じ過ちを繰り返すかもしれない。


未来の人々は、

今の私たちを見て何と言うだろう。


なぜそんな制度を信じていたのか。

なぜそんな価値観を当然だと思ったのか。

なぜそんな世界を受け入れていたのか。


私たちは過去の正義を笑う。


だが、

未来の人々もまた、

私たちの正義を笑うかもしれない。


それは不快な想像である。


しかし同時に、

人類が進歩してきた証でもある。


もし未来の人々が私たちを笑うなら、

それは彼らが別の景色を見ているということだからだ。


より良い景色かどうかは分からない。


だが少なくとも、

世界は動き続けている。


正義もまた、

動き続けている。


だから私たちにできることは、

正義を見つけることではないのかもしれない。


正義を問い続けること。


自分の正しさを疑うこと。


相手にも正義があるかもしれないと考えること。


そして、

誰かに答えを委ねすぎないこと。


神にも。

国家にも。

世論にも。

AIにも。


なぜなら歴史が教えている。


正義を決める権利を誰かに渡した瞬間、

人は考えることをやめてしまうからだ。


私たちは何千年も正義を追い求めてきた。


だが人類が本当に学ぶべきだったのは、

正義そのものではなかったのかもしれない。


自ら考え続けること。


その営みこそが、

正義と呼ばれてきたものの正体なのかもしれない。

おわりに

1804年の朝。

二人の男は拳銃を持って向かい合った。


彼らは愚かだったのだろうか。


おそらく違う。


彼らは、

その時代の正義を信じていた。


私たちが今の正義を信じているように。


だから笑うことは簡単だ。


だが本当に難しいのは、

彼らを理解しようとすることだ。


そして、

未来の人々から見た時、

私たち自身もまた理解される側になることを忘れないことだ。


正義とは何か。


その答えを私は知らない。


だが一つだけ分かることがある。


人類はこれからも、

その問いを手放さない。


おそらく、

それこそが人間らしさなのだから。