ドラレコは嘘をつかない。
そう言われることがある。
確かに、目の前で起きた出来事を記録する能力において、ドラレコは人間の記憶よりもはるかに正確だ。
しかし、ドラレコに映っているからといって、その瞬間に「事実」になるわけではない。
事故の映像があり、目撃者がいて、被害者と加害者が存在しても、社会はそれを直ちに事実として扱わない。警察が調べ、検察が判断し、司法手続きを経て、はじめて社会的な事実として認証される。
私たちは普段、事実とは現実そのものだと思っている。しかし実際には、現実と事実のあいだには長い距離がある。そして現代は、その距離を誰が埋めるのかを巡って、国家とSNSが競合し始めた時代でもある。
なぜ人類は「認証」を必要としたのか
目の前でリンゴが落ちる。
これは現実である。
目の前で車が信号を無視する。
これも現実である。
しかし、その現実を見たのが自分一人だったとしたらどうだろうか。
後になって誰かへ説明しても、
「本当に見たのか」
「勘違いではないのか」
「証拠はあるのか」
という話になる。
現実は存在していても、それだけでは社会の共有財産にはならない。
人類は昔からこの問題に直面してきた。
村で盗みが起きた。
土地の境界で争いが起きた。
借金を返した、返していないという揉め事が起きた。
当事者同士はそれぞれ自分の正しさを主張する。
しかし第三者から見れば、どちらが本当のことを言っているのか分からない。
そこで人類は認証者を作った。
長老。
神官。
王。
裁判官。
そして国家。
認証者の役割は真実を作ることではない。
真実を社会が共有できる形へ変換することである。
たとえ現実に起きた出来事であっても、誰も確認できず、誰も共有できなければ社会的には存在しないのと同じだからだ。
考えてみれば、私たちの周囲には認証によって成立しているものが数多く存在する。
戸籍。
土地の所有権。
会社。
通貨。
これらは物理的な実体だけでは成立しない。
紙に書かれた一万円札は、単なる紙切れである。
しかし国家が価値を認証しているから、一万円として機能する。
事実も同じである。
現実が存在するだけでは足りない。
誰かが確認し、記録し、検証し、社会が共有できる形へ変換する必要がある。
その仕組みこそが認証であった。
長い間、この仕組みはうまく機能していた。
少なくとも、多くの人はそう信じていた。
だが二十一世紀に入り、その前提が大きく揺らぎ始める。
人類史上初めて、認証される前の現実が大量に流通するようになったからである。
SNSは何を変えたのか
二十世紀まで、認証権の大半は限られた組織が握っていた。
国家。
新聞。
ラジオ。
テレビ。
人々はそれらを通じて世界を知った。
遠い国で起きた戦争も、大きな事故も、政治家の発言も、多くの人は直接見たわけではない。認証機関が収集し、整理し、伝えた情報を受け取っていただけである。
もちろん、その仕組みには問題もあった。
誤報は起きる。
偏向も起きる。
時には権力による隠蔽も起きる。
それでも情報の流通量が限られていた時代、人類はその仕組みに依存するしかなかった。
しかしインターネットが登場する。
さらにスマートフォンが普及する。
ここで状況は根本から変わった。
誰もがカメラを持つようになった。
誰もが記録者になった。
誰もが発信者になった。
かつてなら新聞社の記者しか撮影できなかった映像を、市民が撮影する。
かつてならテレビ局しか届けられなかった現場映像を、個人が世界へ配信する。
現実は認証機関を経由せず、そのまま流通し始めた。
重要なのは、SNSが新しい事実を作ったわけではないということだ。
SNSが作ったのは、
認証前の現実が可視化される世界
である。
これまで私たちは、認証された後の情報しか見てこなかった。
警察発表。
新聞記事。
テレビ報道。
裁判記録。
どれも認証プロセスを経た後の情報である。
ところがSNSでは違う。
事件直後の映像が流れる。
現場の証言が投稿される。
編集も検証も行われていない情報が、何百万人もの目に触れる。
その結果、人々は初めて認識する。
認証とは現実そのものではなく、現実を整理し、解釈し、社会へ共有するための手続きだったことを。
そして同時に、新たな不満も生まれた。
なぜ映像があるのに認めないのか。
なぜ報道しないのか。
なぜ処分されないのか。
なぜ結論が出るまで待たなければならないのか。
国家や司法から見れば、それは当然の手続きである。
映像だけでは全体が分からない。
証言の確認も必要だ。
反論の機会も与えなければならない。
事実認定には時間がかかる。
しかしSNS利用者から見れば違う。
目の前に映像がある。
現実が映っている。
ならば事実ではないか。
ここに現代社会のねじれが生まれる。
国家は認証を重視する。
SNSは観測を重視する。
どちらも現実へ近づこうとしている。
しかし、その方法がまったく違うのである。
SNSは認証機関を代替したのではない。
認証前の現実を可視化したのである。
映像は真実を語るのか
ここで一つの疑問が生まれる。
もし映像が存在するなら、それは事実ではないのだろうか。
確かに映像は強力である。
人間の記憶は曖昧だ。
目撃証言は食い違う。
時間が経てば記憶は変化する。
しかし映像は、その瞬間を記録し続ける。
だからこそ私たちはドラレコを信用する。
監視カメラを証拠として扱う。
スマートフォンの動画に説得力を感じる。
だが、映像にも限界がある。
映像は出来事を記録できる。
しかし出来事の意味までは記録できない。
一人の男が走っている。
その映像だけを見れば、逃走しているようにも見える。
しかし実際には救急車を呼びに走っていたのかもしれない。
一人の警察官が誰かを取り押さえている。
暴力に見えるかもしれない。
しかし映像の数秒前には刃物を持っていた可能性もある。
映像は現実の断片を切り取る。
しかし現実そのものではない。
さらに現代では、編集という問題がある。
都合の悪い部分を切り落とす。
前後関係を省略する。
短い切り抜きだけを拡散する。
そうすると、同じ映像から全く異なる物語が生まれる。
そして近年は、ディープフェイクという新しい問題も加わった。
映像そのものを人工的に生成できる時代が始まったのである。
もっとも、現時点では多くのドラレコ映像や監視カメラ映像の信頼性が失われたわけではない。
私たちは依然として映像を重要な証拠として扱っている。
問題はそこではない。
問題は、映像が存在しても解釈は一つにならないことだ。
同じ映像を見ても、
事故だと言う人がいる。
事件だと言う人がいる。
正当防衛だと言う人がいる。
過剰防衛だと言う人がいる。
映像が争いを終わらせるとは限らない。
むしろ争いの出発点になることさえある。
ここで改めて見えてくる。
人類が必要としていたのは、単なる記録装置ではなかった。
記録を読み解き、判断し、社会として共有するための仕組みだったのである。
そして現代人は、その仕組みそのものを疑い始めている。
かつては信頼されていた認証機関が、今では認証の対象になったからだ。
ファクトチェックはなぜ信頼を失ったのか
二十世紀、多くの人は認証機関を信頼していた。
新聞が報じた。
テレビが報じた。
専門家が説明した。
政府が発表した。
それだけで十分だった。
少なくとも、多くの人はそう考えていた。
しかしインターネットは別の現実を可視化した。
報道されない出来事。
扱いの小さい事件。
後になって誤りだと判明した情報。
そして、認証機関自身の失敗。
人々は次第に気付き始める。
認証機関もまた人間によって運営されているという当たり前の事実に。
認証者にも思想がある。
利害がある。
組織の論理がある。
間違いもある。
これは決して陰謀論ではない。
人間が運営する以上、避けられない現実である。
そこで登場したのがファクトチェックだった。
大量の情報が流通する時代。
誰かが真偽を確認しなければならない。
その役割を担うために、多くのファクトチェック組織が生まれた。
発想そのものは合理的だった。
問題は別の場所にあった。
人々が疑い始めたのは、
情報そのものではなく、
誰が判定しているのか
だったのである。
ある情報を誤りと判定する。
別の情報を正しいと判定する。
しかしその基準は誰が決めるのか。
判定者は完全に中立なのか。
その組織はどこから資金を受けているのか。
その判断は将来も維持されるのか。
こうして奇妙な現象が起きる。
ファクトチェック機関がファクトチェックされ始めたのである。
かつては、
事実を検証する者
と
検証される対象
は明確に分かれていた。
しかし今では違う。
政治家も検証される。
メディアも検証される。
専門家も検証される。
ファクトチェック機関も検証される。
そしてAIも検証される。
誰も特権的な認証者ではなくなった。
これは認証制度の崩壊ではない。
むしろ逆である。
認証そのものが多極化されたのである。
誰もが発信できる。
誰もが記録できる。
誰もが反論できる。
誰もが検証できる。
その結果、人類は奇妙な状況に立たされる。
認証機関を信用できない。
しかし認証機関なしにも生きられない。
そしてこの矛盾の先に現れたのが、AIだった。
検索エンジンは情報を探した。
AIは情報を整理し、要約し、答えを返す。
それは事実上、新しい認証機関の誕生を意味していた。
AIは新しい認証機関になるのか
検索エンジンが登場したとき、人々はそこまで警戒しなかった。
検索エンジンは答えを出さないからである。
キーワードを入力すると、関連する情報を並べてくれる。
あとは利用者が読む。
判断する。
比較する。
責任は利用者の側にあった。
しかし生成AIは違う。
人々は検索するためにAIを使っているのではない。
答えを得るために使っている。
「何が起きたのか」
「どちらが正しいのか」
「誰の説明が妥当なのか」
「結局どういうことなのか」
AIは膨大な情報を読み込み、それらを整理し、一つの回答として提示する。
利用者から見れば便利である。
だが別の見方をすれば、これは認証作業そのものでもある。
かつて人々は新聞へ尋ねた。
後にはテレビへ尋ねた。
検索エンジンへ尋ねる時代もあった。
そして今、人々はAIへ尋ねている。
「本当のことを教えてくれ」
ここに新しい問題が生まれる。
AIは何を根拠に判断しているのか。
多数派の意見か。
公的機関の発表か。
学術論文か。
報道機関か。
SNS上の一次情報か。
実際には、そのすべてである。
だからこそ難しい。
国家だけを信じれば、認証前の現実を見落とす可能性がある。
SNSだけを信じれば、誤情報に振り回される可能性がある。
専門家だけを信じれば、専門家自身の誤りを見落とす可能性がある。
AIは常に、それらの間でバランスを取ろうとしている。
しかし忘れてはならないことがある。
AIは真実を知っているわけではない。
AIが見ているのは現実ではない。
記録である。
文書である。
映像である。
証言である。
統計である。
つまりAIもまた、人類が残した痕跡を読み解いているに過ぎない。
そして時には、その痕跡同士が矛盾する。
国家の発表と現場映像が食い違う。
専門家同士の見解が割れる。
報道機関によって結論が異なる。
そのときAIは何を選ぶべきなのか。
実は、人類自身もまだ答えを持っていない。
だからAIは万能の審判にはなれない。
最終的な真実を宣言する神にもなれない。
だが同時に、AIは単なる検索エンジンでもない。
人類が記録した膨大な情報を整理し、比較し、矛盾を発見し、利用者へ提示する。
それは間違いなく、新しい認証機関に近い役割である。
人類は長い歴史の中で、
王に尋ねた。
国家に尋ねた。
新聞に尋ねた。
専門家に尋ねた。
そして今、AIに尋ね始めている。
だが、その時代になっても最後の問いだけは残り続ける。
誰がAIを認証するのか。
国家や新聞と異なり、AIの認証過程は見えにくい。
それは人類が経験したことのない新しい問題である。
事実とは何か
私たちは普段、事実とは現実そのものだと思っている。
目の前で起きた出来事。
映像に記録された瞬間。
写真に残された証拠。
それらが事実だと考えている。
しかし本稿で見てきたように、現実と事実は同じものではない。
現実は起きる。
だが事実は共有されなければならない。
そのために人類は認証という仕組みを作った。
王が認証した時代があった。
国家が認証した時代があった。
新聞やテレビが認証した時代があった。
そして今、SNSがその認証権へ挑戦している。
さらにAIもまた、新たな認証者として登場しつつある。
だが状況がどれほど変化しても、一つだけ変わらない事実がある。
誰も現実のすべてを見ることはできない。
一人の人間が知ることのできる世界はあまりにも狭い。
だから私たちは他者の記録を借りる。
証言を借りる。
映像を借りる。
制度を借りる。
そして互いの認証を積み重ねながら、少しずつ世界像を作り上げている。
事実とは、どこかに完成された形で存在しているものではない。
それは人類が現実へ近づこうとして作り続けている巨大な共同作業である。
だから現代の争いは、
何が事実なのかという争いではない。
誰が事実を認証するのか。
その認証権を巡る争いなのである。
だが、おそらく人類は永遠にその答えへ到達しない。
国家は誤る。
メディアも誤る。
SNSも誤る。
AIも誤る。
そして私たち自身も誤る。
それでも人類は認証をやめられない。
認証を失った瞬間、社会は共有された現実を失うからだ。
事実とは何か。
それは現実そのものではない。
現実へ近づこうとする人類の終わりなき営みの名前なのである。
認証は誰のために存在するのか
しかし本稿を書きながら、もう一つの疑問に行き着いた。
事実とは何か。
ではない。
認証は誰のために存在するのか。
である。
国家は認証を行う。
警察は捜査する。
検察は起訴する。
司法は判断する。
それらは法治国家にとって不可欠な仕組みである。
だが認証そのものが目的ではないはずだ。
本来の目的は国民を守ることにある。
一方、SNSは認証機関ではない。
捜査権もなければ、逮捕権もない。
判決を下すこともできない。
それでも人々がSNSへ向かうのは、そこに救済の可能性を見ているからである。
近年、社会を揺るがせた事件の多くで、SNSは現場の映像や証言を可視化してきた。
それらの中には、後に事実として認証されたものもあれば、誤情報として消えていったものもある。
だが少なくともSNSは、人々が感じた違和感や不安を社会へ届ける役割を果たしてきた。
SNSだけでは国家は動かない。
だが国家だけでも、すべての問題を発見できるわけではない。
一方は観測する。
一方は認証する。
一方は可視化する。
一方は執行する。
現代社会はしばしば、SNSと国家の対立として語られる。
しかし実際には、そのどちらか一方だけでは人々を守ることはできない。
事実とは何か。
その答えは今も定まらない。
だが一つだけ確かなことがある。
認証は認証のために存在するのではない。
人々を守るために存在する。
もしその目的を忘れたとき、
国家も、
SNSも、
AIも、
その存在理由そのものを問われることになるだろう。

