同じニュースを見ても、なぜ意見は割れるのか
私たちはしばしば、偏向報道という言葉を使う。
ある新聞は右寄りだと言われ、別の新聞は左寄りだと言われる。テレビ局にも、ニュースサイトにも、それぞれの立場があると言われている。
実際、同じ出来事を扱っていても、見出しは驚くほど違う。
ある記事は経済への影響を強調し、ある記事は政治的な責任を追及する。ある記事は数字を並べ、ある記事は被害者の声を前面に出す。
その結果、同じ出来事を扱っているにもかかわらず、読者が受け取る印象は大きく変わる。
しかし、少し不思議なことがある。
同じ記事を読んだ人同士でさえ、まったく違う感想を抱くことがあるのだ。
ある人は希望を見出し、ある人は危機を感じる。
ある人は事実だと言い、ある人は偏向だと言う。
SNSを見れば、同じニュースに対して正反対の意見が並んでいる光景は珍しくない。
もし原因が報道機関だけにあるのなら、同じ記事を読んだ人々は、もっと似た結論にたどり着くはずだ。
だが現実はそうなっていない。
もしかすると問題は、ニュースの側だけではないのかもしれない。
私たち自身の認識にも、何か理由があるのではないだろうか。
写真部の部長だった私が知っていること
高校時代、私は写真部の部長をしていた。
写真を趣味にしている人なら分かると思うが、不思議なことがある。
同じ場所に行っても、同じ写真になることはほとんどないのだ。
撮影会では、全員が同じ時間に同じ場所へ立つ。
天気も同じ。
光の条件も同じ。
目の前に広がる風景も同じだ。
それなのに、出来上がる写真は驚くほど違う。
ある部員は広角レンズで景色全体を撮る。
ある部員は道端に咲く小さな花へ近づいていく。
ある部員は通り過ぎる人々の表情を追いかける。
また別の部員は空ばかり撮っている。
後で作品を並べると、同じ場所で撮影したとは思えないことさえある。
もちろん、誰も嘘をついているわけではない。
写真は確かにその場所で撮られたものだ。
しかし、それぞれが見ていたものは少しずつ違っていた。
いや、正確には違う。
同じものを見ていたのだが、何を重要だと思うかが違っていたのである。
写真を撮るという行為は、世界を記録する作業ではない。
世界を選び取る作業なのだ。
フレームの外には無数の情報が存在している。
しかし写真家は、その中の一部分だけを切り取る。
そして見る人は、その切り取られた世界を「現実」として受け取る。
ニュースもまた、少し似ている。
世界では毎日無数の出来事が起きている。
その全てを報じることはできない。
だから記者は選ぶ。
編集者は選ぶ。
読者もまた選ぶ。
何を読むか。
何に注目するか。
何を重要だと感じるか。
私たちは世界を見ているつもりでいる。
しかし実際には、世界の中から何かを選び取り、その断片を見ているに過ぎない。
そして、そのことに気付かないまま生きている。
認識とはフレーミングである
写真を趣味にしていると、やがて一つの事実に気付く。
カメラは世界をそのまま写しているわけではない。
そもそも、それは不可能なのだ。
世界はあまりにも広い。
視界のすべてを一枚の写真に収めることはできない。
だから私たちは選択する。
どこを写すのか。
どこを切り捨てるのか。
何を主役にするのか。
どこでシャッターを切るのか。
写真の技術とは、言い換えれば選択の技術でもある。
そして不思議なことに、これはカメラだけの話ではない。
人間の認識そのものが、同じ構造を持っている。
私たちは普段、自分が世界をそのまま見ていると思っている。
しかし実際には、脳は膨大な情報を処理しきれない。
目に入る光。
耳に届く音。
肌に触れる感覚。
周囲の人々の表情。
記憶。
感情。
過去の経験。
それらすべてを同時に意識することは不可能だ。
だから脳は取捨選択を行う。
重要だと思うものを前景に置き、
重要ではないものを背景へ追いやる。
あるいは完全に無視する。
私たちが「見た」と思っているものは、
実際には脳が選び抜いた結果なのである。
考えてみれば当たり前の話だ。
同じ会議に出席した人が、後でまったく違う感想を語ることがある。
同じ映画を見た人同士が、正反対の評価を下すこともある。
同じニュースを読んだ人が、まるで別の世界の出来事を語っているように見えることさえある。
それは誰かが嘘をついているからではない。
それぞれが違う場所に注目し、
違う部分を重要だと判断し、
違う意味を読み取ったからだ。
私たちは世界を受け取っているのではない。
世界を解釈している。
そしてその解釈は、本人が思っている以上に積極的な作業なのである。
もしそうだとすれば、ある疑問が生まれる。
私たちは本当に世界を見ているのだろうか。
それとも、自分自身が作り上げた世界を見ているだけなのだろうか。
二百年以上前、一人の哲学者はこの問いに真正面から向き合った。
その名をイマヌエル・カントという。
世界に合わせていると考えていた。
カントは逆に、
私たちが経験する世界の方が、人間の認識の枠組みに合わせて現れているのではないかと考えた。
写真で言えば分かりやすい。
私たちはしばしば、
写真は現実を写したものだと考える。
しかし実際には、
レンズの種類によって見え方は変わる。
広角レンズは空間を広く見せる。
望遠レンズは距離感を圧縮する。
同じ風景でも、使う道具によって世界の姿は変わる。
カントが言いたかったのも、少し似た話だった。
人間は世界を直接見ているのではない。
人間というレンズを通して見ているのである。
そして厄介なことに、
私たちはそのレンズを外すことができない。
魚が水の外を知らないように、
人間は人間の認識の外側を経験できない。
だからこそカントは、一つの大胆な結論へたどり着く。
私たちは世界そのものを知ることはできない。
知ることができるのは、
人間に見えている世界だけなのだ。
私たちは世界そのものを見ていない
ここでカントは、さらに踏み込んだことを言う。
私たちが認識している世界は、
世界そのものではない。
人間に見えている世界である。
この考えを説明するために、カントは後に「物自体」という言葉を使った。
少し難しい言葉だが、考え方は意外と単純だ。
例えば、目の前に赤いリンゴがあるとする。
私たちは当たり前のように、
「リンゴは赤い」
と思っている。
しかし本当にそうだろうか。
犬には違う色に見えているかもしれない。
昆虫にはまったく別の姿に見えているかもしれない。
あるいは、人間とはまったく異なる感覚器官を持つ知的生命体がいたとしたら、私たちには想像もできない形で認識しているかもしれない。
では、そのリンゴの「本当の姿」とは何なのだろう。
カントは言う。
それは分からない。
私たちが知っているのは、
人間という認識装置を通して現れたリンゴだけである。
世界そのものがどうなっているかは分からない。
しかし、人間にどう見えているかは分かる。
私たちはその世界の中で生きているからだ。
最初に聞くと、少し奇妙な話に思えるかもしれない。
だが考えてみれば、私たちは最初からそうやって生きている。
音もそうだ。
空気の振動そのものを聞いているわけではない。
耳が振動を電気信号へ変換し、
脳がそれを「音」として解釈している。
色もそうだ。
光そのものを見ているわけではない。
特定の波長を目が受け取り、
脳がそれを「赤」や「青」として認識している。
つまり私たちは、
世界を直接経験しているのではなく、
変換された世界を経験しているのである。
そして、おそらく最も重要なのはここだ。
私たちは普段、そのことを忘れている。
見えているものが世界そのものだと思っている。
自分の感じたことが正しいと思っている。
自分の解釈が自然なものだと思っている。
しかしカントは、その足元を静かに崩してしまった。
君が見ている世界は、
世界そのものではないかもしれない。
それは、人間という存在に見えている世界なのだ。
AIはカントを証明してしまった
カントが亡くなったのは1804年。
もちろんAIなど存在しない。
コンピュータすら存在しない。
それにもかかわらず、私は最近になって妙な感覚を覚えるようになった。
AIを使っていると、カントの言葉が急に現実味を帯びてくるのである。
例えば、ChatGPTに同じ質問を投げる。
Claudeに同じ質問を投げる。
Geminiに同じ質問を投げる。
すると少しずつ違う答えが返ってくる。
扱う情報は似ている。
参照している世界も大きくは変わらない。
それなのに結論や表現は微妙に異なる。
あるAIは技術的な側面を重視し、
あるAIは社会的な影響を重視し、
あるAIは安全性を強調する。
最初は不思議に思った。
しかし考えてみれば当然だった。
彼らは世界を見ているわけではない。
世界を解釈しているのである。
それぞれ異なる学習データを持ち、
異なる設計思想を持ち、
異なる評価基準を持つ。
だから同じ情報から異なる世界像を構築する。
だが、ここで少し立ち止まってみたい。
それは本当にAIだけの話だろうか。
人間も同じではないだろうか。
私たちはしばしば、
AIにはバイアスがあると言う。
AIは偏っていると言う。
しかし人間はどうだろう。
育った環境。
読んできた本。
出会った人々。
経験した成功。
経験した失敗。
そうしたものは、私たちの認識に影響を与えていないだろうか。
同じニュースを読んでも、
人によって見えるものが違う。
同じ出来事を経験しても、
記憶される内容が違う。
同じ写真を見ても、
感じる意味が違う。
私たちはAIの出力の違いを見て驚く。
しかし本当に驚くべきなのは、
人間もまた同じことをしていたという事実なのかもしれない。
むしろAIの登場によって、
私たちは初めて自分自身の認識の癖を外から観察できるようになった。
まるで鏡を見るように。
AIは世界をそのまま理解しているわけではない。
だから答えが揺らぐ。
人間も世界をそのまま理解しているわけではない。
だから意見が割れる。
二百年以上前、カントはそのことを哲学として語った。
そして二百年後、
私たちはAIという新しい鏡を通して、
ようやくその意味を実感し始めている。
偏向報道よりも厄介なもの
私たちは偏向報道を嫌う。
報道機関には中立であってほしいと思う。
SNSには公平であってほしいと思う。
AIにも客観的であってほしいと思う。
その気持ちはよく分かる。
私自身もそう思う。
しかし、ここで少し意地悪な問いを投げてみたい。
私たちは本当に中立を求めているのだろうか。
それとも、自分の考えに近い意見を求めているだけなのだろうか。
SNSを眺めていると、時折不思議な光景を見かける。
ある人は、
「このAIは偏向している」
と批判する。
しかし理由を聞くと、
自分と違う結論を出したからだったりする。
別の人は、
「この報道は公平ではない」
と怒る。
しかし実際には、
自分が期待していた論調ではなかっただけということもある。
もちろん、本当に偏った報道も存在する。
悪意のある情報操作も存在する。
それは否定できない。
しかし同時に、
私たち自身もまた、自分に都合の良い情報を好む傾向を持っている。
見たいものを見る。
信じたいものを信じる。
自分の考えを補強してくれる情報を集める。
心理学では様々な名前が付いているが、
そんな専門用語を知らなくても、多くの人は経験的に理解しているはずだ。
私たちは案外、自分が思っているほど客観的ではない。
カントが恐ろしいのはここである。
彼は特定の新聞を批判したわけでも、
特定の政治思想を批判したわけでもない。
もっと根本的な場所を疑った。
認識そのものを疑ったのである。
だからカントの哲学は二百年以上経った今でも古びない。
新聞がテレビになっても。
テレビがインターネットになっても。
インターネットがAIになっても。
問題の本質は変わらないからだ。
私たちは常に何かを通して世界を見ている。
そして、その「何か」の中には、
メディアだけではなく、
私たち自身も含まれている。
もしかすると本当に厄介なのは、
偏向報道ではないのかもしれない。
偏向していないと思い込んでいる私たち自身なのかもしれない。
世界を疑う前に
ここまで読んで、
少し不安になった人もいるかもしれない。
もし私たちが世界そのものを見ていないのだとしたら、
何を信じればいいのだろう。
ニュースも信用できない。
SNSも信用できない。
AIも信用できない。
そして、自分自身の認識さえ信用できない。
そんな結論になってしまうのではないか、と。
しかしカントは、そんなことを言いたかったわけではない。
彼は「真実は存在しない」と主張したのではない。
人間が真実に近づくことの難しさを語ったのである。
それは絶望ではない。
むしろ謙虚さへの誘いだった。
自分が見ている世界が全てではないかもしれない。
自分とは違う意見の中にも、見落としていた視点があるかもしれない。
AIの回答にも、自分にはなかった発想が含まれているかもしれない。
そう考えることができる。
考えてみれば、写真も同じだった。
写真を始めた頃の私は、
良い写真には正解があると思っていた。
しかし部員たちの作品を見ているうちに、その考えは少しずつ変わっていった。
同じ場所に立ちながら、
自分には見えていなかったものを撮る人がいる。
自分なら通り過ぎてしまう景色に、
価値を見出す人がいる。
そのたびに、
世界は思っていたより広いのだと気付かされた。
おそらく認識も同じなのだろう。
私たちは世界を見ている。
それは間違いない。
しかし、見えている世界が全てではない。
そして、その事実を受け入れた瞬間から、
私たちは少しだけ自由になれる。
自分の考えに縛られず、
他人の視点を学び、
新しい解釈を受け入れることができるからだ。
二百年以上前、イマヌエル・カントは人間の認識について考え続けた。
AIもインターネットも存在しない時代に。
そして二百年後。
私たちは検索エンジンを使い、
SNSを眺め、
AIと対話しながら、
彼が投げかけた問いと再び向き合っている。
私たちは本当に世界を見ているのだろうか。
あるいは、
人間というフレームを通して見た世界を、
世界そのものだと思い込んでいるだけなのだろうか。
その問いに完全な答えはない。
だが、その問いを忘れないことこそが、
認識論という長い旅の第一歩なのかもしれない。


