2026年6月、NextcloudやIONOSを中心とする欧州連合の新たなオフィススイート「Euro-Office」が正式リリースされた。

しかし、その船出は決して順風満帆とは言えない。
LibreOffice財団は、ODF(OpenDocument Format)ではなくMicrosoft Officeとの互換性を優先した姿勢を批判した。
コードベースとして採用されたのはLibreOffice系ではなく、ONLYOFFICEをフォークしたものだったため、CollaboraやONLYOFFICE側からも複雑な反応が上がっている。
一見すると、Euro-Officeは四方八方から怒られているようにも見える。
だが、このプロジェクトが本当に目指しているものは何だろうか。
ODFという理想か。
それともMicrosoft 365からの脱却という現実か。
少なくとも私には、このプロジェクトは「新しいOffice」を作ろうとしているようには見えない。
むしろ欧州が本気で取り組み始めた、Microsoft 365依存からの脱出計画の一部に見えるのだ。
Euro-Officeとは何者か
Euro-Officeを理解するうえで、まず誤解を解いておきたい。
これは新しいOfficeソフトを作るプロジェクトではない。
少なくとも、単なるWordやExcelの代替を目指しているわけではない。
プロジェクトに参加している企業や団体を見ると、その狙いが見えてくる。
中心となるのはNextcloudとIONOS。
さらにXWiki、OpenProject、Open-Xchangeなど、欧州の主要なオープンソース企業が名を連ねている。
これらは偶然集まったわけではない。
よく見ると、それぞれがMicrosoft 365を構成する要素に対応している。
| Microsoft 365 | 欧州側の対応 |
|---|---|
| SharePoint | Nextcloud |
| Word / Excel / PowerPoint | Euro-Office |
| Planner | OpenProject |
| Outlook | Open-Xchange |
| Wiki・ナレッジ管理 | XWiki |
つまりEuro-Officeは単独で存在する製品ではなく、欧州版Microsoft 365とも言える「EuroStack」構想の一部として生まれたのである。
ここが非常に重要だ。
もし目的が単なるOffice代替なら、既に選択肢は存在する。
LibreOfficeもある。
Collaboraもある。
ONLYOFFICEもある。
それでも新しいプロジェクトが立ち上がったのは、欧州が欲しかったものが「Office」ではなかったからだ。
欲しかったのは、自分たちで管理できるクラウド基盤だった。
近年、欧州ではデジタル主権(Digital Sovereignty)という言葉が繰り返し語られている。
自治体や公共機関、企業のデータが海外企業のクラウドサービスに依存し続けて良いのか。
Microsoft 365やGoogle Workspaceに業務の中枢を委ね続けて良いのか。
そうした問題意識の延長線上に、Nextcloudを中心とした欧州独自のクラウド基盤構想がある。
Euro-Officeは、その最後のピースだったのかもしれない。
ファイル保存だけならNextcloudで十分だった。
しかし現実の企業や自治体は、文書作成や表計算、プレゼンテーションも日常的に利用している。
Microsoft 365から本気で移行してもらうためには、Office機能が欠かせない。
だからEuro-Officeは生まれた。
このプロジェクトは「新しいOfficeを作る話」ではなく、「Microsoft 365の代替スタックを作る話」として見るべきなのだ。
なぜONLYOFFICEをフォークしたのか
Euro-Officeの発表で最も驚いたのは、コードベースとしてONLYOFFICEが選ばれたことだった。
欧州主導のオフィススイートを作る。
そう聞けば、多くの人はLibreOfficeやCollaboraを思い浮かべるだろう。
実際、LibreOfficeは長年にわたってオープンソースオフィスの代表格として知られている。
Collaboraもオンライン共同編集機能を備え、多くのNextcloudユーザーに利用されてきた。
それにもかかわらず、Euro-Officeが選んだのはONLYOFFICEだった。
しかも単なる採用ではない。
フォークである。
当然ながら、この決断は各方面に波紋を広げた。
ONLYOFFICE側から見れば、自分たちのコードがベースになっているにもかかわらず、新たな競合製品が生まれた形になる。
Collaboraから見れば、「なぜ我々ではなかったのか」という疑問が生まれる。
LibreOffice財団に至っては、ODFよりもOOXML互換を優先する方針に強い不満を示した。
しかし、少し冷静に考えてみると、この選択には一定の合理性が見えてくる。
Euro-Officeが目指しているのは、Microsoft 365からの移行先になることだ。
そこで重要になるのは何か。
まず思い浮かぶのが、WordやExcelファイルとの互換性である。
そしてもう一つ。
近年のクラウドサービスでは当たり前になった、リアルタイム共同編集だ。
複数人が同じ文書を同時に開き、編集内容が即座に反映される。
Microsoft 365やGoogle Workspaceでは当然の機能だが、企業や自治体が移行を検討する際には、この体験が意外なほど重要になる。
ONLYOFFICEは、この分野において非常に強い。
むしろ設計思想そのものが、ブラウザベースの共同編集に向いている。
一方でLibreOfficeは、もともとデスクトップアプリケーションとして発展してきた経緯がある。
Collaboraはそのオンライン化に成功しているが、Euro-Office陣営から見ると、自ら主導権を握れるコードベースが欲しかったのかもしれない。
さらに言えば、欧州が掲げるデジタル主権という観点も無視できない。
発表資料では、ONLYOFFICEがロシアで開発されていることや、開発プロセスの透明性、コード品質、コミュニティ運営のあり方などにも言及されている。
これらがどこまで本当の理由なのかは分からない。
だが少なくとも、欧州が「自分たちでコントロールできる基盤」を求めていることだけは間違いないだろう。
その意味で、ONLYOFFICEをフォークした判断は単なる技術選定ではない。
Euro-Officeというプロジェクトそのものを、欧州の手に取り戻すための決断だったとも言える。
もちろん、その代償として各方面から怒られることになったわけだが。
なぜODFではなくOOXMLなのか
Euro-Officeを巡る議論の中心にあるのが、この問題だ。
なぜODFではなく、Microsoft Officeとの互換性を優先したのか。
LibreOffice財団が強く反発したのも、この点である。
彼らの主張は理解できる。
ODF(OpenDocument Format)はISO標準として策定されたオープンな文書フォーマットだ。
特定企業に依存せず、誰でも実装できる。
オープンソース陣営が長年推進してきた理念の象徴でもある。
一方のOOXMLはMicrosoft Officeが事実上の標準として広めてきた形式だ。
Wordならdocx。
Excelならxlsx。
PowerPointならpptx。
世界中で使われている一方で、多くのオープンソース支持者からは「Microsoftによる囲い込みの象徴」と見なされてきた。
だからこそ、
「欧州主権のOfficeを作る」
という話を聞けば、多くの人はODF中心になると思ったはずだ。
ところがEuro-Officeは逆を選んだ。
少なくとも初期リリースでは、OOXML互換性を最優先事項としている。
これは裏切りなのだろうか。
私はそうは思わない。
なぜなら、彼らが戦っている相手はODFではなくMicrosoft 365だからだ。
考えてみてほしい。
ある自治体が10年分の文書を保有している。
企業なら20年分かもしれない。
その大半は、
- docx
- xlsx
- pptx
で保存されている。
もし移行の条件として、
「まずODFへ変換してください」
と言われたらどうだろう。
おそらく、その時点で移行計画は止まる。
技術的な正しさと、現実に移行できるかどうかは別問題なのだ。
利用者が求めているのはISO規格ではない。
昨日まで開いていたファイルが、今日も同じように開けることである。
もちろん、完全な互換性など存在しない。
マクロやVBA、複雑なテンプレートなどは今後も課題として残るだろう。
しかし現実には、多くの利用者が求めているのはそこではない。
提案書が崩れないこと。
議事録が読めること。
見積書がそのまま印刷できること。
その安心感こそが移行の条件になる。
だからEuro-Officeは、まずOOXML互換を選んだ。
ODFを捨てたからではない。
移行の入口としてOOXMLが必要だったからだ。
実際、Nextcloud自身は今後のODF完全対応を明言している。
つまり彼らは、
「ODFかOOXMLか」
という二者択一で考えていない。
まずMicrosoft依存から脱却する。
そのうえでオープン標準へ近づいていく。
そういう順番を選んだのだろう。
理想主義者から見れば回り道に映るかもしれない。
だが、利用者の立場から見れば極めて現実的な判断にも見える。
少なくとも私は、ODFを入口にするより、ODFを出口にする方が成功確率は高いように思う。
Nextcloudらしい現実主義
今回のEuro-Office騒動を見ていて、私は少し懐かしい気持ちになった。
というのも、この判断は実にNextcloudらしいからだ。
長年Nextcloudを追いかけてきた人なら分かると思う。
Nextcloudは昔から理想論だけで戦うプロジェクトではなかった。
むしろ驚くほど現実主義だ。
例えば企業向け機能を見てみよう。
Nextcloudは早い段階から、
- SMB共有
- Active Directory
- LDAP
- S3ストレージ
- WebDAV
といった既存環境との連携を強化してきた。
純粋なオープンソース思想だけで考えれば、
「独自の理想的な仕組みを普及させよう」
という方向もあったはずだ。
しかし彼らは違った。
企業が既に持っている資産を活かしながら移行できる道を選んだ。
それはGoogle Driveからの移行でも同じだった。
Dropboxからの移行でも同じだった。
Nextcloudは革命を起こそうとしたのではない。
現実的な乗り換え先になろうとした。
だからここでOOXML互換を優先したとしても、私は驚かない。
むしろ自然な流れに見える。
もし彼らが最初から、
「ODF以外は認めない」
と言い出したらどうなるだろう。
おそらく多くの企業や自治体は検討段階で離脱する。
なぜなら移行コストが大きすぎるからだ。
一方で、
「既存のWordやExcelファイルをそのまま使えます」
と言われれば話は変わる。
導入のハードルは一気に下がる。
その後にODFへの対応を強化することもできる。
この順番は、いかにもNextcloudらしい。
理想を捨てたわけではない。
しかし理想を押し付けても普及しないことを知っている。
実際、Nextcloudがここまで成長できた理由もそこにある。
ユーザーが求めていたのは、
「オープンソースだから使う」
ではなかった。
「Google Driveの代わりになるから使う」
だった。
結果として、多くのユーザーがオープンな技術へ触れるようになった。
理想は、実用性の後から付いてきたのである。
Euro-Officeも同じ道を歩もうとしているように見える。
ODFを否定するのではない。
まずは使われること。
まずは移行してもらうこと。
そのために必要な現実解として、OOXML互換を選んだ。
それはオープンソース界隈では批判される選択かもしれない。
しかし利用者の立場に立てば、極めて合理的な判断でもある。
そして、その割り切りこそがNextcloudというプロジェクトの強さなのだと思う。
なぜ各方面から怒られているのか
Euro-Officeのニュースを追っていると、少し不思議な気分になる。
なぜなら、このプロジェクトには様々な立場の人が不満を表明しているからだ。
しかし面白いことに、よく聞いてみると全員の言い分にそれなりの理屈がある。
まずONLYOFFICE側。
彼らから見れば、自分たちが長年開発してきたコードベースがフォークされ、新しい競合製品が誕生したように見える。
しかも、その理由として挙げられているのが、
- ロシア企業であること
- 開発プロセスの透明性
- コミュニティ運営
といった点だ。
技術的な議論だけでなく、地政学的な事情も絡んでいる。
ONLYOFFICEからすれば複雑な心境だろう。
次にCollabora。
こちらはもっと単純だ。
欧州主導のオフィススイートを作る。
そう聞けば、多くの人がLibreOffice系の技術が採用されると思う。
実際、Collaboraは長年にわたりオンライン共同編集機能を磨いてきた。
だからこそ、
「なぜ我々ではなかったのか」
という感情が生まれるのも自然だ。
そしてLibreOffice財団。
こちらは思想的な立場からの批判である。
彼らにとってODFは単なるファイル形式ではない。
オープンスタンダードの象徴だ。
Microsoft依存から脱却するという話を聞けば、
「それならODFを中心に据えるべきだ」
という主張になる。
これも理解できる。
つまり、
- ONLYOFFICEは立場上怒る
- Collaboraも立場上怒る
- LibreOffice財団も立場上怒る
のである。
しかし興味深いのは、彼らが目指している未来そのものは大きく違わないことだ。
誰もMicrosoft依存を歓迎しているわけではない。
誰もオープンソースの発展に反対しているわけではない。
ただ、
「どうやってそこへ辿り着くか」
で意見が分かれているのだ。
LibreOffice財団は理想から始めたい。
Nextcloudは現実から始めたい。
ONLYOFFICEは既存の成果を活かしたい。
Collaboraは積み上げてきた技術を使ってほしい。
全員がそれぞれの正義を持っている。
だからこの論争は、単純な善悪の話ではない。
むしろEuro-Officeが本気でMicrosoft 365の代替を狙っているからこそ起きた衝突にも見える。
もし誰も相手にしていない小さなプロジェクトだったなら、ここまで議論にはならない。
実際、オープンソースの世界ではよくあることだ。
最初は
「邪道だ」
「理想を捨てた」
と批判される。
しかし数年後には、
「連携を強化しました」
「協業を発表しました」
というニュースが流れる。
歴史は何度もそれを繰り返してきた。
Euro-Officeがその道を歩むのかどうかはまだ分からない。
だが少なくとも今は、欧州のオープンソース界隈が本気でMicrosoft 365の代替を作ろうとしていることだけは伝わってくる。
そして、その本気度の高さが各方面との摩擦として表れているのだろう。
Euro-Officeの勝算
では、Euro-Officeは成功するのだろうか。
正直に言えば、まだ分からない。
リリースされたばかりのプロジェクトであり、実運用の実績もこれからだ。
だが少なくとも私は、
「ODF対応が不十分だから失敗する」
とは思っていない。
むしろ成功の鍵は、そこではないように見える。
利用者が本当に知りたいのは、
ODF対応率でもなければ、
オープンソースの純度でもない。
もっと単純だ。
今使っている文書が開くか。
共同編集できるか。
権限管理できるか。
共有リンクを送れるか。
業務が止まらないか。
Microsoft 365が強い理由もそこにある。
Wordだからではない。
Excelだからでもない。
Office、OneDrive、SharePoint、Teamsが一体化しているからだ。
だからEuro-Officeの勝負も、
Office単体では決まらない。
Nextcloud
OpenProject
XWiki
Open-Xchange
そしてEuro-Office
これらがどれだけ自然につながるか。
そこが勝負になる。
実際、この構図は少し前のNextcloudにも似ている。
かつて、
「Google Driveの代わりになるわけがない」
と言われていた。
しかし今では、多くの企業や自治体が実際に利用している。
理由は単純だ。
Googleを超えたからではない。
十分だったからだ。
Euro-Officeも同じかもしれない。
Microsoft Officeを超える必要はない。
Microsoft 365から移行できるレベルに達すればいい。
特に欧州では、
近年になって「デジタル主権」という言葉が急速に重みを増している。
クラウドも。
メールも。
文書も。
特定の海外企業へ依存し続けて良いのか。
その問いに対する現実的な回答を、多くの組織が探し始めている。
その時、
ODF対応率100%という理想論よりも、
「来月から移行できます」
という現実解の方が強い。
だから私は、
Euro-Officeを裏切り者だとは思わない。
確かに彼らはOOXML互換を選んだ。
ONLYOFFICEをフォークした。
各方面から批判も受けている。
だが、その選択は理想を捨てた結果ではない。
理想へ辿り着くために、現実を選んだ結果なのだろう。
Microsoftから脱出するために、Microsoft互換を選ぶ。
一見すると矛盾している。
しかし利用者の立場で考えれば、それは案外もっとも合理的な戦略なのかもしれない。
そして数年後、
この判断が「妥協」だったのか、
それとも「英断」だったのか。
その答えは、欧州の自治体や企業がどちらを選ぶかによって決まるのだろう。





