CPUの歴史 ─第1章:CPU以前 ─ コンピュータを小さくせよ

CPUの歴史 ─第1章:CPU以前 ─ コンピュータを小さくせよ TECH

いま「CPU」と聞いて、巨大な機械を思い浮かべる人はほとんどいないだろう。

黒い小さなチップ。
あるいはPCのスペック表に並ぶ、Core、Ryzen、Snapdragonといった名前。

しかしCPUという言葉は、もともとCentral Processing Unit――中央処理装置の略である。

「装置」なのだ。

そして、かつてその言葉は文字どおりだった。

CPUが部屋だった時代

1946年に一般公開されたENIACは、初期の大規模電子式コンピュータを象徴する存在である。

重量約30トン。およそ18,000本の真空管を使い、消費電力は約140kW。装置を並べれば全長は100フィート近くに達した。

コンピュータは机の上に置くものではない。

人間がコンピュータの中へ入っていく。

そんな大きさだった。

もちろん、これは当時の技術者が無駄に巨大な機械を作っていたからではない。

むしろ逆である。

ENIACが採用した真空管は、電気信号によって高速に計算を行うための重要な技術だった。それまでの電気機械式装置に比べ、電子式のENIACは圧倒的に高速だった。Computer History Museumによれば、その速度は従来機の1000倍以上に達した。

問題は、その高速な計算を実現するために、膨大な数の部品が必要だったことだ。

真空管だけではない。

ENIACには約70,000個の抵抗器、10,000個のコンデンサ、1,500個のリレーが使われていた。

そして、それらは接続しなければならない。

一つひとつの部品が正常でも、回路は配線されて初めて回路になる。

コンピュータが複雑になるということは、単に部品が増えることではなかった。

部品と部品の間にある接続まで増える。

ここに、初期のコンピュータが抱えた厄介な問題があった。

真空管には「すぐ壊れる」というイメージもある。

しかし、これも少し注意が必要だ。

約18,000本もの真空管を使ったENIACが、常に何本も切れて動かなかったわけではない。設計者たちは真空管へ過大な負荷をかけないよう慎重に設計し、信頼性を高めていた。Computer History Museumの記録では、真空管の交換はおよそ1〜2日に1本程度だったという。

しかも後年の研究では、ENIACの故障原因は真空管だけではなく、電源電圧の変動、ケーブル、はんだ接続などによる間欠的な障害も大きかったことが指摘されている。

問題の本質は、「真空管は役に立たない」ことではない。

これほど大量の部品を使って巨大な電子回路を作ること自体が大仕事だったのである。

速いコンピュータを作りたい。

機能を増やしたい。

そのためには回路が増える。

回路が増えれば、部品が増える。

部品が増えれば、場所を取り、電力を食い、熱を出し、配線が増え、製造も保守も難しくなる。

コンピュータの性能を高めようとするほど、コンピュータそのものを構成する物量が壁になっていった。

最初の敵は、計算能力ではなかった。

数だった。

真空管を小さくするのではなく、置き換える

この状況を大きく変えたのが、トランジスタだった。

1947年、Bell Laboratoriesでトランジスタが生まれる。

真空管が担っていた増幅やスイッチングを、半導体によって実現できる。

コンピュータにとって重要だったのは、単に「部品が小さくなった」ということだけではない。

真空管のようにヒーターで加熱する必要がなく、消費電力を抑えられる。発熱も小さくできる。そして小型化しやすい。

1950年代になると、実際にトランジスタを使ったコンピュータが現れ始めた。

1953年11月、マンチェスター大学のRichard GrimsdaleとDouglas Webbは、Tom Kilburnのもとでトランジスタ式コンピュータの試作機を動作させている。

このManchester TCは92個の点接触型トランジスタと550個のダイオードを使っていた。1955年には250個の接合型トランジスタを使う改良型も完成し、Metropolitan Vickersによって商用機へ発展した。

米国でも1954年、Bell LabsのJean H. Felkerらが米空軍向けにTRADICを開発した。

約700個のトランジスタと1万個以上のダイオードを使いながら、消費電力は100W未満だった。

これは大きな前進だった。

コンピュータを構成する電子部品は、確実に小さくなっていた。

だが、ここで問題が消えたわけではない。

むしろ、次の問題がはっきり見えるようになった。

トランジスタそのものは小さい。

しかしコンピュータを作るには、その小さなトランジスタを大量に並べなければならない。

抵抗器やコンデンサも必要になる。

そして何より、それらを配線しなければならない。

真空管をトランジスタに置き換えても、

「大量の部品を一つずつ組み合わせて巨大な回路を作る」

という構造そのものは残っていたのである。

部品が小さくなれば、もっと多くの部品を使える。

もっと多くの部品を使えば、もっと複雑な回路を作れる。

すると今度は、その膨大な部品をどう接続するのかという問題が深刻になる。

小型化が成功したからこそ、さらに集積しなければならなくなった。

技術史には、こういう意地の悪い瞬間が何度も現れる。

一つの壁を越えると、その向こうにもっと大きな壁が立っている。

「数の暴政」

1950年代末、電子回路の技術者たちはこの問題に直面していた。

部品を小さくするだけでは足りない。

回路が複雑になればなるほど、部品と接続の数が増え、製造が難しくなる。

後に「tyranny of numbers――数の暴政」と呼ばれる問題である。

ここで発想を変える必要があった。

小さな部品を大量に作って、それを後から接続するのではない。

最初から、複数の部品を一つにしてしまえばいい。

この考えを現実のものへ近づけた人物の一人が、Texas InstrumentsのJack Kilbyだった。

1958年、Kilbyは抵抗、コンデンサ、トランジスタなどを同じ半導体材料で作れば、一つの基板上に回路全体を構成できるのではないかと考えた。

同年9月12日、彼はTexas Instrumentsの研究室で動作する集積回路を実演した。

ただし、ここで「KilbyがICを発明して終わり」としてしまうと、実際の歴史をかなり取りこぼす。

ほぼ同じ時期、Fairchild Semiconductorでは別の重要な技術が育っていた。

Jean Hoerniが1959年に考案したplanar process――プレーナー技術である。

半導体表面に形成した酸化膜を残して接合部を保護するこの方法は、トランジスタの信頼性を改善しただけではなかった。部品をウェハーの片側から形成できるため、集積回路を量産するための重要な基盤になった。

そしてRobert Noyceは、このプレーナー技術を利用し、酸化膜の上へアルミニウム配線を形成して、同じシリコン上の素子同士を接続する方法を考えた。

1959年に特許を出願。

翌1960年にはJay Last率いるFairchildのチームが、実際に動作するプレーナー型ICを製作した。

だから集積回路の誕生は、一人の天才がある日突然「チップ」を発明した物語ではない。

Kilbyの着想。

Hoerniの製造技術。

Noyceの配線構造。

そして、それを実際に製造できる工程へ仕上げていった技術者たち。

いくつもの発明が重なって、

電子回路を「部品の集合」ではなく「一つの半導体として作る」道が開いた。

重要なのはここである。

トランジスタが真空管を小さくしたのではない。

ICもまた、単にトランジスタをさらに小さくしたものではない。

変わったのは、回路の作り方そのものだった。

部品を減らす

IC――Integrated Circuit。

日本語では「集積回路」。

この「集積」という言葉は、CPUの歴史を追ううえで極めて重要になる。

それまで回路基板の上に並んでいた複数の電子部品を、一つの半導体上へまとめる。

すると、単に面積が小さくなるだけではない。

外部で接続しなければならない部品が減る。

配線が減る。

組み立て工程が減る。

故障の原因になり得る接続点も減らせる。

そして同じ回路を大量に製造できる。

電子回路は、職人が部品を一つずつ組み上げるものから、半導体製造工程の中でまとめて作るものへ変わり始めた。

最初のICに載せられる回路は、現在から見れば驚くほど小規模だった。

しかし重要なのは数そのものではない。

昨日より多くの機能を、今日、一つのチップへ載せられる。

その繰り返しが始まったことだった。

1960年代にはICの集積度が急速に高まり、SSI、MSI、そしてLSIといった言葉が使われるようになる。

Small Scale Integration。

Medium Scale Integration。

Large Scale Integration。

ただし、この境界を「素子が何個ならLSI」と厳密に覚える必要はない。時代や資料によって分類は一定しないからだ。

歴史を見るうえで重要なのは、もっと単純である。

昨日まで何枚もの基板と大量の部品で作っていた機能が、一つ、また一つとチップの中へ消えていった。

回路は確実に小さくなっていた。

そして、この技術を猛烈な勢いで欲しがる産業があった。

舞台は巨大コンピュータの研究所から、一気に机の上へ移る。

日本の机の上で始まった戦争

1960年代の日本。

高度経済成長のただ中で、企業の事務処理も急速に増えていた。

計算機の市場には、機械式計算機やリレー式計算機が存在していた。

カシオ計算機もその有力メーカーだった。

1957年に発売した14-Aはリレーを使った計算機で、カシオはこの市場で成功していた。

ところが、電子化の波が来る。

カシオ自身の社史には、その変化がかなり率直に残されている。

電子式計算機は速い。

静か。

そして小さい。

リレー式計算機を改良していたカシオは対応が遅れ、完成した新型リレー機を販売店へ見せたところ、「もうリレーの時代ではない」と突きつけられた。

好調だった製品が、技術の世代交代によって突然時代遅れになる。

半導体産業では、この光景が後に何度も繰り返される。

カシオは電子式へ急旋回し、1965年に同社初の電子式卓上計算機「001」を発売した。

幅370mm、奥行480mm、高さ250mm。

重量17kg。

価格38万円。

17kgもある。

それでも、これは「机の上」に置ける計算機だった。

巨大なコンピュータから見れば、世界は猛烈な勢いで縮んでいた。

その一年前、1964年には早川電機工業――現在のシャープ――がCS-10Aを発売している。

全トランジスタ・ダイオード式の電子卓上計算機で、価格は53万5000円。当時の1300ccクラスの自動車に匹敵する価格だった。

安くはない。

だが売れた。

そして、売れると分かれば競争相手が来る。

シャープの社史によれば、市場には一時33社、210機種がひしめいた。

「電卓戦争」と呼ばれる競争の始まりである。

ここで電子回路の集積化は、研究所の技術課題ではなくなった。

商売の武器になった。

小さくしろ。安くしろ

電卓メーカーが競争する。

すると要求は単純になる。

もっと小さく。

もっと軽く。

もっと安く。

消費電力も減らしたい。

そして他社より早く、新しい製品を出したい。

この要求に対して、トランジスタを大量に並べる方式には限界があった。

シャープは1966年、ICを採用したCS-31Aを開発する。

同社の記録では、この機種では28個のバイポーラICが使われた。部品点数、重量、価格はいずれも最初の電子式計算機から大幅に削減された。

さらに1967年のCS-16AではMOS ICを採用。

価格は23万円。

重量4kg。

最初のCS-10Aと比べれば、価格は半分以下、重量は約6分の1になった。

わずか数年である。

部屋を占領していた電子計算機の技術が、机の上で激しい価格競争を始めていた。

そして1969年、シャープはNorth American Rockwellと提携し、MOS LSIを使ったQT-8Dを発売する。

幅135mm、奥行247mm、厚さ72mm。

重量1.4kg。

1964年のCS-10Aから、まだ5年しか経っていない。

電子卓上計算機は、もはや「机を占領する機械」ですらなくなりつつあった。

ここまで来ると、電卓メーカーの競争は半導体メーカーの競争と切り離せない。

どんな回路を作れるか。

何個の部品を一つのチップへ押し込めるか。

どれだけ少ないチップで製品を構成できるか。

それが、そのまま製品の大きさ、価格、消費電力、そして競争力へ跳ね返る。

日本の電卓産業は、半導体集積化の巨大な需要先になっていった。

だが、集積化が進めば進むほど、奇妙な問題も生まれてくる。

小さくなった回路が、今度は重荷になる

電卓は単純な機械に見える。

数字を入力して、計算して、答えを表示する。

しかし製品として考えれば、そう単純ではない。

桁数が違う。

機能が違う。

メモリーを付けたい。

印刷機能を付けたい。

顧客によって仕様も違う。

海外向け製品もある。

OEMなら、供給先の要求にも合わせなければならない。

そのたびに必要な論理回路が変わる。

ICやLSIによって、一つのチップへ多くの回路を入れられるようになった。

これは素晴らしい。

しかし、そのチップが特定の製品専用に作られたものならどうなるだろう。

新製品を作る。

仕様が変わる。

すると回路を設計し直す。

新しいチップを作る。

次の製品が出る。

また設計する。

集積化によって製品そのものは劇的に小さくなったのに、今度は集積された回路を設計する仕事が重くなっていく。

日本計算器販売――後にビジコンと名乗る会社も、この問題に直面していた。

同社は国内外の企業へOEMで電卓を供給していた。

ところが同じ系列の製品でも、顧客ごとの細かな仕様に応じてハードウェアを設計しなければならない。

情報処理学会コンピュータ博物館に残された記録には、そのため開発コストと開発時間の削減が求められていたことが記されている。

ここまで来ると、問題の形が最初とはまるで違っている。

ENIACの時代、壁だったのは物量だった。

何万もの部品。

膨大な配線。

巨大な電力。

巨大な筐体。

トランジスタは部品を小さくした。

ICは複数の部品を一つにまとめた。

LSIは、さらに多くの論理回路を一枚のシリコンへ押し込んだ。

その結果、電子計算機は部屋から机の上へ降りてきた。

ところが電卓メーカーが激しい製品競争を始めると、別の壁が姿を現した。

回路はもう十分に小さい。

問題は、

その小さな回路を、製品が変わるたびに作り直さなければならないことだった。

より小さく。

より安く。

より早く。

市場は待ってくれない。

ならば――

ハードウェアそのものを毎回作り直さずに、違う仕事をさせる方法はないのか。

参考・出典

本章の執筆にあたり、以下の資料を参照しました。