CPUの歴史 ─第2章:4004 ─ 電卓から生まれたCPU

CPUの歴史 ─第2章:4004 ─ 電卓から生まれたCPU TECH

1971年。

私が生まれたその年、アメリカでは一枚の小さな半導体が世に出た。

Intel 4004

4bit、約2,300トランジスタ。

現代のCPUから見れば、数字だけなら驚くほど小さい。

しかし、4004を見るとき、その性能を現代のCPUと比べてもあまり意味はない。

大切なのは、約2,300個しかなかったことではない。

約2,300個のトランジスタで、中央処理装置を一枚のシリコンへ押し込めたことだ。

そして、もう一つ。

そこに入っていたのは、単なる計算回路ではなかった。

プログラムを変更すれば、同じ回路が違う仕事をする。

いまではあまりにも当たり前になった、

ハードウェアを作り替える代わりに、ソフトウェアを書き替える。

その考え方が、一枚のチップとして姿を現したのである。

しかも、そのきっかけを作ったのはコンピュータではない。

電卓だった。


電卓が「産業」になった

1960年代後半、日本では奇妙な競争が始まっていた。

電卓戦争である。

いまとなっては電卓など100円ショップでも買える。

しかし当時、電子式卓上計算機は高価な事務機器だった。

1965年にカシオが発売した「001」は38万円。

その後、トランジスタからIC、さらにLSIへと電子回路の集積が進み、価格は急速に下がっていく。

そして市場が成長すると、メーカーが殺到した。

カシオの社史によれば、ピーク時には50社以上が参入し、日本の電卓生産額は1970年には1,000億円を超えた。

「電卓戦争」と呼ばれるほどの激しい競争だった。

競争の軸は分かりやすい。

小さくしたい。

安くしたい。

高機能にしたい。

そして何より、

次の製品を早く出したい。

ここで、新しい問題が浮上する。

半導体が進歩して、回路そのものは小さくできるようになった。

だが、電卓の新製品を作るたびに、その製品に合わせた専用LSIを設計していたのでは、開発の手間も費用も増えていく。

半導体を小さくする技術が進歩した結果、今度は、

何をその半導体に入れるのか

という設計そのものが壁になり始めたのである。


日本からIntelへ持ち込まれた仕事

1969年、日本の日本計算器販売――海外ではBusicomのブランドで知られた企業――がIntelを訪れた。

目的は、新しい電卓に使うLSIの開発だった。

Intelはまだ創業から間もない会社である。

いまでこそIntelといえばCPUだが、当時のIntelはCPUメーカーではない。

主力は半導体メモリだった。

そこへBusicomが、電卓用のカスタムLSIを作ってほしいと持ち込んできた。

Intelの記録では、1969年4月にBusicomから12個ほどのカスタムチップからなる構成が提示されたとされている。細部については史料によって数え方に差があるが、重要なのはそこではない。

Busicom側の発想は、その時代として自然なものだった。

必要な機能を分け、それぞれ専用のLSIにする。

計算をする回路。

プログラムを制御する回路。

メモリ。

プリンタを制御する回路。

キーボードなどを扱う入出力回路。

必要な仕事に、それぞれ専用のハードウェアを割り当てる。

従来の電子機器は、基本的にそうやって作られていた。

ところがIntel側でこの計画を検討していたTed Hoffは、別の方向を考え始める。

そんなに多くの専用回路を作らなくてもいいのではないか。

もっと汎用的な回路を一つ作り、何をさせるかはプログラムで決めればいい。

この発想から、設計は大幅に単純化された。

最終的なMCS-4システムは、

プログラムを保持するROMの4001。

データを保持するRAMの4002。

入出力を拡張する4003。

そして中央で命令を実行する4004。

という4種類のチップを中心に構成された。

ここで、歴史が少し面白くなる。

Busicomは「CPUを発明してほしい」とIntelへ頼みに来たわけではない。

Intelも「未来のパーソナルコンピュータを作ろう」と4004を始めたわけではない。

両社が解こうとしていたのは、もっと具体的な問題だった。

競争の激しい電卓市場で、どうすれば複雑な製品を少ないLSIで効率よく作れるのか。

CPUは、その回答として生まれた。


一人の天才が4004を作ったわけではない

4004の歴史では、ときどき「誰がマイクロプロセッサを発明したのか」という話になる。

だが、実際の開発を見ると、一人の発明者を置いた瞬間に話が不正確になる。

Busicom側で中心となったのが嶋正利だった。

嶋は電卓の論理設計を担当しており、BusicomがIntelへ持ち込んだシステムの要求をよく理解していた。

IntelではTed Hoffが、専用チップを多数並べる構成から、より汎用的なCPUを中心とした構成へ転換する基本的なアイデアを提示した。

Stanley Mazorも加わり、命令体系や各チップの仕様が整理されていく。

だが、アーキテクチャを考えることと、それを実際の半導体として作ることは別の仕事である。

しかも当時、CPU一個分もの複雑なランダムロジックを、一枚のMOSチップへ詰め込むのは簡単ではなかった。

そこで1970年4月、IntelへFederico Fagginが入社する。

FagginはFairchild Semiconductorでシリコンゲート技術に携わっていた技術者だった。

シリコンゲートMOSは、従来の方式より高密度で高速なLSIを可能にする重要な技術だった。Faggin自身もFairchild時代に、その実用化に深く関わっている。

ところがIntelへ来てみると、Busicomとのプロジェクトは予定より大幅に遅れていた。

そこへ進捗を確認するため日本から戻ってきた嶋正利が現れる。

約束した設計が進んでいない。

当然、怒った。

Fagginの回想でも、このときの嶋の怒りはかなり強烈だったらしい。

しかし、そこから二人は協力する。

Fagginはシリコン上の論理設計、回路設計、レイアウト、製造可能な形への実装を主導した。

嶋は論理設計の検証やシミュレーション、電卓として必要な機能との整合、テストプログラムなどを担った。

Computer History Museumも嶋の役割を、4004の機能仕様策定、論理設計、論理シミュレーション、テストプログラム生成まで含むものとしている。

Hoffだけでも4004にはならない。

Fagginだけでも4004にはならない。

嶋だけでも4004にはならない。

Mazorも含め、それぞれ違う場所から持ち込まれた知識が一枚のシリコン上で出会った。

4004はIntelの発明である。

同時に、Busicomとの共同作業から生まれたCPUでもある。

そしてCPU史の最初期には、最初から日本人技術者がいた。


なぜ4bitだったのか

4004は4bit CPUである。

ここだけを取り出すと、現代人にはずいぶん頼りなく見える。

8bitでも16bitでもなく、4bit。

一度に扱える情報はわずか4bit。

しかし、

「1971年だから4bitしか作れなかった」

では説明にならない。

4004には、4bitである理由があった。

電卓だからだ。

私たちが日常使う数字は十進数である。

0から9までの10種類の数字を表現できればよい。

4bitなら、

0000から1111まで16通りを表現できる。

したがって、一桁の十進数字を扱うには十分だった。

もちろん、実際の電卓は何桁もの数字を計算する。

その場合は4bitずつ、複数の桁を順番に処理すればよい。

つまり4bitは、

電卓という用途に合わせた合理的な選択だった。

しかもビット幅を抑えれば回路は小さくでき、外部との接続に必要な配線や端子も減らせる。

4004が収められたパッケージはわずか16ピンだった。

限られた半導体技術とパッケージの中で、目的を達成する。

4bitという数字は未熟さの証拠ではない。

当時の制約と用途から導かれた設計なのである。


約2,300個で「CPU」を作る

4004には約2,300個のトランジスタが集積されていた。

この数字は、現代の感覚ではほとんど冗談のように見える。

現在の高性能SoCでは、トランジスタ数は数百億個の規模に達する。

だが、ここで4004を笑ってはいけない。

むしろ逆だ。

約2,300個でCPUが作れた。

命令を読み出す。

命令を解釈する。

レジスタに値を持つ。

演算する。

次に実行する命令の位置を管理する。

そうした中央処理装置の基本的な仕事が、一枚のチップの内部で行われる。

それ以前のCPUは、複数の基板やICを組み合わせて作るものだった。

4004は、その「中央処理」というまとまりを、一枚のシリコンへ押し込んだ。

ここで第1章から続いてきた流れが、一つの到達点を迎える。

真空管をトランジスタにする。

トランジスタをICにする。

ICをLSIにする。

より小さく。

より少ない部品で。

より高い集積度へ。

そしてついに、

CPUそのものが一個の部品になった。


革命は「小さくなったこと」だけではない

だが、4004の本当の面白さは、CPUが小さくなったことだけではない。

もっと重要な変化がある。

専用回路では、仕事を変えたければ回路を変える。

掛け算をする装置なら、掛け算をするよう回路を組む。

プリンタを制御するなら、そのための回路を作る。

別の機械を作りたければ、また別の回路を設計する。

だがCPUは違う。

同じ4004でも、

ROMに置くプログラムを変えれば違う仕事をさせられる。

ハードウェアは同じままでいい。

役割を決めるものが、配線からソフトウェアへ移った。

嶋正利は後年、4004について非常に印象的な言葉を残している。

彼がマイクロプロセッサにおける最大の発明だと考えたのは、

ハードワイヤード・ロジックをソフトウェアで置き換えたこと

だった。

まさに、ここである。

CPUが一枚のチップになったことは重要だ。

だが、そのCPUがプログラム可能だったことは、さらに重要だった。

製品を変えるたび、電子回路そのものを全部設計し直す必要がない。

ある程度共通化されたハードウェアを作り、違いをソフトウェアへ押し出せる。

現代では、この考え方が世界を覆っている。

パソコン。

スマートフォン。

自動車。

家電。

ルーター。

ゲーム機。

工作機械。

同じようなプロセッサが、プログラムによってまったく別の機械になる。

1971年、その当たり前はまだ当たり前ではなかった。


Intel自身も、その価値を最初から理解していたわけではない

ここには歴史らしい皮肉もある。

Intelは4004を作った。

だがIntelは当初、4004を自由に売れる立場ではなかった。

Busicom向けの契約で開発されたためである。

ところが開発中、電卓市場の価格競争はさらに激しくなっていた。

BusicomもIntelとの条件を再交渉する必要に迫られる。

その過程でIntelは、電卓用途を除く4004ファミリの販売権を得た。

そして1971年11月、Intelは4004を一般市場へ発表する。

広告には、

「Announcing a New Era of Integrated Electronics」

――集積電子技術の新時代を告げる――

という言葉が掲げられた。

もっとも、Intel社内が最初からマイクロプロセッサの巨大市場を確信していたわけでもない。

Hoffの回想によれば、Intelのマーケティング部門は当初、マイクロプロセッサを売ることにかなり懐疑的だった。

Intelはメモリを売る会社だった。

営業にとって、売り慣れたのはメモリであって「コンピュータ」ではない。

年間数千個程度しか売れないのではないかという見方さえあったという。

後世から見ると笑いたくなる。

だが、これは未来を知らない人間としては当然でもある。

1971年に、

「これからCPUは世界中のあらゆる機械へ入り、何十億個も作られる」

と言われたところで、簡単に信じられる話ではない。

歴史の転換点とは、たいてい転換している最中にはそれほど分かりやすくない。


「世界初」の前にあるもの

Intel 4004はしばしば、

世界初のマイクロプロセッサ

と呼ばれる。

一般的な技術史では、それで大きく間違ってはいない。

Computer History Museumも4004を、世界初の商用マイクロプロセッサとして位置づけている。

ただし「世界初」という言葉には注意が必要だ。

4004以前にも、CPU機能を小さな半導体群へ集積しようとする試みは存在した。

Four-Phase SystemsのAL1のようなCPUスライスもあった。

Garrett AiResearchではF-14戦闘機用のCentral Air Data Computerとして、複数のLSIからなるプロセッサも開発されていた。

何を「マイクロプロセッサ」と定義するか。

一枚のチップである必要があるのか。

完全なCPU機能を持つ必要があるのか。

一般販売されたものでなければならないのか。

定義によって「最初」は揺れる。

だから4004の価値を、「世界初」という表彰台だけに乗せる必要はない。

4004の歴史的重要性はもっと強い。

一枚の汎用プログラマブルCPUが、量産可能な商用半導体として市場へ出た。

そしてIntelが、それを特定の電卓だけに閉じず、一般の設計者へ販売した。

そこからマイクロプロセッサという製品市場が始まっていく。

それで十分なのである。


電卓戦争は、さらに激しくなる

4004が一般向けに発表されたのは1971年11月だった。

そして翌1972年8月。

日本ではカシオが「カシオミニ」を発売する。

価格は12,800円。

従来の電卓の常識を壊す価格だった。

発売から10か月で100万台を売ったという。

カシオミニが4004を生んだわけではない。

順序は逆である。

4004の開発はその何年も前から始まっている。

しかしカシオミニの成功を見ると、BusicomとIntelが4004を作っていた時代に、電卓メーカーへどれほど強烈な小型化と低価格化の圧力がかかっていたのかが分かる。

1965年には38万円だったカシオの電子計算機が、

1969年には11万円。

1971年には3万8,700円。

そして1972年には1万2,800円。

数年で価格の桁が変わっている。

そんな市場で、

「新製品を作るたびに専用LSIを一式設計します」

では、やがて苦しくなる。

4004は研究所から突然飛び出してきた未来技術ではなかった。

市場の圧力が必要とした技術だった。

CPUの歴史には、この構図が何度も現れる。

技術が市場を変える。

だが同時に、

市場が技術を作らせる。

4004は、その最初の鮮やかな例だった。


人間が一枚のCPUを理解できた時代

4004のダイ写真を見ると、不思議な感覚になる。

もちろん回路は複雑だ。

それでも約2,300トランジスタである。

一人の技術者がCPU全体をかなり具体的なところまで把握できた時代だった。

Fagginは論理設計から回路、レイアウトにまで深く関わった。

嶋はCPUの論理を追い、電卓として動くプログラムを検証した。

CPUという機械が、まだ人間の頭の中へ収まり得る大きさだったのである。

それから半世紀あまり。

一枚のSoCへ入るトランジスタは、数百億という規模になった。

設計は巨大なチームへ分業され、CPUコアだけでなくGPU、メモリ制御、映像処理、AI演算、セキュリティ機能まで同居する。

一人の人間がチップ全体をトランジスタの一個一個まで理解する、という意味では、もはや別世界だ。

私が生まれた1971年から、まだ一人の人生ほどしか経っていない。

その間に、

約2,300個は、数百億個になった。

CPU史の時間は、意外なほど短い。


ハードを作る時代から、プログラムを書く時代へ

4004は高速なCPUではない。

巨大なメモリを扱えるわけでもない。

現代の意味で、パーソナルコンピュータを動かすために設計されたCPUでもない。

そもそも出発点は電卓だった。

だが、その制約の中で一つの扉が開いた。

専用回路を作り続けることが壁になる。

ならば、汎用的な演算装置を一つ作る。

何をさせるかはプログラムで決める。

そして、その中央処理装置を一枚のチップへ集積する。

この発想によってCPUは、

「コンピュータの中に作り込む回路」

から、

「部品として買えるコンピュータの頭脳」

へ変わり始めた。

まだ、この時点では始まりにすぎない。

4004は電卓を作るために生まれた4bit CPUだった。

しかし一度、

プログラム可能な中央処理装置を、一枚のチップとして作れる

と分かってしまった。

ならば当然、次の問いが生まれる。

もっと多くのデータを扱えないか。

もっと自由な機械を作れないか。

もっと汎用的なコンピュータに使えないか。

電卓のために生まれた小さなCPUが、

電卓だけで終わる理由はなかった。

参考・出典

本章の執筆にあたり、以下の資料を参照しました。

  • Intel「Announcing a New Era of Integrated Electronics ― The Intel 4004」
    BusicomからIntelへの電卓用LSI開発依頼、当初の12チップ構想、Ted Hoffによる汎用プロセッサ構想、4004の権利をIntelが取得した経緯、1971年の一般市場への投入など。
    https://www.intel.com/content/www/us/en/history/virtual-vault/articles/the-intel-4004.html
  • Intel「The First Programmable Microprocessor: The 4004」
    1969年のBusicomとの開発開始、4チップ構成への転換、2,300トランジスタという規模、1971年11月15日の4004発表など。
    https://timeline.intel.com/1971/the-first-programmable-microprocessor-the-4004
  • Engineering and Technology History Wiki「Oral History: Masatoshi Shima」
    嶋正利氏の1994年のオーラルヒストリー。Busicom側の構想、Hoff・Mazorとの議論、4004の機能仕様・論理設計、電卓プログラムによる実機検証など、開発当事者から見た4004成立過程。
    https://ethw.org/Oral-History:Masatoshi_Shima
  • 情報処理学会 コンピュータ博物館「嶋 正利」
    Busicomにおけるストアードプログラム方式の電卓開発、Intelとの共同開発、4004の論理設計・レイアウトチェック・テストプログラム生成など、嶋正利氏の具体的な役割を確認するため参照。
    https://museum.ipsj.or.jp/pioneer/shima.html
  • Computer History Museum「Microprocessor Integrates CPU Function onto a Single Chip」
    4004の開発史、Hoff・Mazor・Faggin・嶋正利の役割、2,300トランジスタの1チップCPU実現、およびFour-Phase Systems AL-1やF-14用MP944など「世界初のマイクロプロセッサ」をめぐる歴史的背景の確認に使用。
    https://www.computerhistory.org/siliconengine/microprocessor-integrates-cpu-function-onto-a-single-chip/
  • Computer History Museum「Silicon Gate Technology Developed for ICs」
    Federico FagginがFairchildで携わったシリコンゲート技術と、その経験がIntel 4004を製造可能なチップとして実現するうえで果たした役割。
    https://www.computerhistory.org/siliconengine/silicon-gate-technology-developed-for-ics/
  • Intel「4004 Single Chip 4-Bit P-Channel Microprocessor」Data Sheet
    4004の4bit CPU構成、命令セット、プログラムメモリ・RAMのアドレス能力、内部構成、シリコンゲートMOS技術など基本仕様の確認に使用。
    Intel 4004 Data Sheet(PDF)
  • CASIO「History 1970-」
    1972年8月発売のカシオミニ、12,800円という価格、発売10か月で100万台を販売したこと、1960年代後半から続いた日本の「電卓戦争」との関係を確認するため参照。4004開発との時系列を混同しないためにも使用した。
    https://world.casio.com/corporate/history/chapter01/