プロローグ ─ エアコンを買う人々
2026年の夏。
ヨーロッパは記録的な熱波に襲われた。
フランスでは気温40℃を超える地域が相次ぎ、スペインやイタリアでも猛暑警報が発令された。
そして人々はエアコン売り場へ向かった。
別に不思議な話ではない。
暑ければ冷房を買う。
当たり前のことである。
人は暑さで死ぬ。
熱中症は理念を理解しない。
政治思想も尊重しない。
人体は一定以上の温度に耐えられない。
だから冷房を求める。
それ自体は極めて合理的な判断だ。
だが、どこか奇妙な光景でもあった。
なぜなら、つい数年前まで、
エアコンは環境負荷の象徴として語られていたからだ。
冷房を多用する社会は持続可能ではない。
エネルギー消費を減らすべきだ。
脱炭素を進めるべきだ。
再生可能エネルギーへ移行するべきだ。
そうした主張は、長年にわたりヨーロッパから世界へ発信され続けてきた。
もちろん、その問題意識自体は理解できる。
地球環境を守ろうとする試みは必要だ。
限りある資源を大切に使うことも重要だ。
問題はそこではない。
本当に興味深いのは、その理念が40℃の現実に直面したとき、人々が何を選んだかである。
彼らはエアコンを買った。
原発由来の電力も使った。
天然ガスにも頼った。
中国製の機器も受け入れた。
つまり、生きるために必要なものを選んだ。
それは当然だ。
人は理念では生きられない。
人は電気で生きる。
冷房で生きる。
食料で生きる。
だから今回の話は、エアコンの話ではない。
ヨーロッパの話ですらない。
これは、
人間はなぜ、自らの正しさを信じるのか。
そして、
その正しさは、40℃の熱に耐えられるのか。
という話である。
人はなぜ理念を作るのか
人類は不思議な生き物である。
生きるためだけなら、ここまで複雑な文明は必要なかった。
雨が降れば雨を避ける。
寒ければ火を焚く。
腹が減れば食べる。
それだけでも生物としては成立する。
だが人間は違った。
人は理由を求める。
なぜ生きるのか。
なぜ働くのか。
なぜ争うのか。
なぜ我慢するのか。
その答えとして生まれたものが理念だった。
宗教。
哲学。
政治思想。
国家。
法律。
人類は長い歴史の中で、無数の理念を作り上げてきた。
理念には重要な役割がある。
個人の欲望だけでは、大きな社会は維持できない。
今だけ。
自分だけ。
金だけ。
そんな判断ばかりが積み重なれば、共同体は崩壊する。
だから人類は、自らを律するための物語を作った。
それが理念である。
理念は人間をより高い場所へ導く。
目先の利益だけでは到達できない未来を示す。
だから理念そのものは悪ではない。
むしろ文明の根幹と言っていい。
問題は、その理念が成功したときに始まる。
理念が人々の支持を集める。
制度になる。
法律になる。
教育になる。
そしていつしか、
理念は目的ではなく、
現実を裁く基準へと変わり始める。
かつて人間のために作られた理念が、
今度は人間を評価し始めるのだ。
正しい人。
正しくない人。
進歩的な人。
遅れた人。
理解している人。
理解していない人。
そしてさらに進むと、
議論は終わる。
なぜなら、
理念に反対しているのではない。
「正しさ」に反対していることになるからだ。
そこから先は説得ではない。
矯正になる。
対話ではない。
指導になる。
歴史を振り返れば、この構図は何度も繰り返されてきた。
宗教改革。
革命思想。
共産主義。
市場原理主義。
そして現代では、
カーボンニュートラルもまた、その入口に立っている。
もちろん、脱炭素そのものを否定する話ではない。
ここで問いたいのはもっと単純なことだ。
もし理念が本当に正しいなら、
なぜ人は40℃になると行動を変えるのだろうか。
もし理念が絶対なら、
なぜ現実はそのたびに例外を要求するのだろうか。
人類は昔から理念を作ってきた。
だが同時に、
理念を修正しながら生き延びてもきた。
その違いは決定的である。
理念を持つことと、
理念に支配されることは、
まったく別の話だからだ。
カーボンニュートラルは、いつ宗教になったのか
カーボンニュートラルという言葉が登場した当初、その目的は単純だった。
人類の活動によって排出される温室効果ガスを減らす。
それによって気候変動のリスクを抑える。
極めて合理的な話である。
実際、多くの技術革新も生まれた。
発電効率は向上した。
省エネ技術も進歩した。
断熱性能も改善された。
環境問題への関心そのものが高まったことは間違いなく社会の前進だった。
少なくとも出発点に悪意はない。
ところが理念には奇妙な性質がある。
成功すると変質するのだ。
支持を集める。
予算が付く。
制度になる。
教育に組み込まれる。
そしてある日から、
目的だったはずのものが、
目的を超えた価値になる。
カーボンニュートラルも例外ではなかった。
いつしか議論の中心は、
「どうすれば人類が持続的に繁栄できるか」
ではなく、
「CO₂をどれだけ減らせるか」
へ移り始めた。
本来、CO₂削減は手段だった。
だが手段は目的へ昇格した。
そして目的は道徳へ昇格した。
ここから空気が変わる。
脱炭素に賛成する者は進歩的。
慎重論を語る者は保守的。
反対する者は時代遅れ。
疑問を呈する者は科学を理解していない。
やがて、
その議論はどこかで見たことのある姿になる。
正しい人。
正しくない人。
救われる側。
救われない側。
宗教が発明した分類である。
もちろん、これは陰謀ではない。
誰かが会議室で計画したわけではない。
理念は自然にそうなる。
人間がそうする。
人間は正しさを手に入れると、
それを広めたくなる。
そして広めるだけでは満足できない。
従わない人間を説得したくなる。
さらに進むと、
従わない人間の存在そのものが気になり始める。
そこまで行くと、
理念は少しずつ宗教へ近付いていく。
興味深いのは、
その頃になると議論の対象が変わることだ。
CO₂削減の効果ではない。
発電コストでもない。
送電網でもない。
技術的な実現可能性でもない。
問われるのは忠誠心になる。
あなたは賛成か。
反対か。
味方か。
敵か。
この問いが現れた瞬間、
理念は危険な段階へ入る。
なぜなら現実は、
そんな単純な二択では動かないからだ。
世界には暑い国がある。
寒い国がある。
資源国がある。
輸入国がある。
人口密度の高い国がある。
広大な土地を持つ国がある。
それぞれ事情が違う。
それぞれ制約が違う。
それぞれ優先順位が違う。
にもかかわらず、
一つの理念が世界を覆うほど成功すると、
人はその違いを忘れ始める。
自分たちの環境が標準になる。
自分たちの価値観が常識になる。
自分たちの正しさが普遍になる。
そして、その瞬間こそが最も危険なのだ。
なぜなら、
現実は理念を尊重しないからである。
現実は気温を上げる。
現実は戦争を起こす。
現実は停電を起こす。
現実は食料価格を上げる。
そしてある日、
理念に問いかける。
それでも、あなたは生き残れるのか。
ヨーロッパはなぜエアコンを買い始めたのか
2026年の熱波は、ヨーロッパにとって単なる暑い夏ではなかった。
それは気候の問題であると同時に、
価値観の問題でもあった。
かつてヨーロッパの多くの地域では、エアコンは必需品ではなかった。
もちろん存在はしていた。
だが日本やアメリカほど普及していたわけではない。
理由は単純だ。
必要なかったからである。
夏は比較的涼しかった。
湿度も低かった。
窓を開ければ何とかなる。
古い石造りの建物も暑さを和らげてくれた。
だから冷房は贅沢品だった。
なくても生きられるものだった。
しかし環境は変わった。
そして人間は気付く。
自分たちが当たり前だと思っていた環境は、
永遠ではなかったことに。
40℃という数字は面白い。
気温としてはたった15℃の差でしかない。
25℃が40℃になる。
数字だけ見れば小さな変化だ。
しかし人体にとってはまるで違う世界である。
そこでは、
快適性の問題だった冷房が、
生命維持装置へ変わる。
ここで人間は急に現実的になる。
環境思想。
脱炭素。
再エネ。
そうした理念は消えない。
だが優先順位が変わる。
まず生きる。
そのあとで考える。
順番が入れ替わる。
当然だ。
人間はそういう生き物だからである。
興味深いのは、
誰もその変化を責められないことだ。
私たちも同じ状況なら同じことをする。
エアコンを買う。
電気を使う。
冷房を入れる。
そうしなければ死ぬからだ。
問題はそこではない。
本当に興味深いのは、
そのエアコンがどこから来たのかである。
世界最大のエアコン生産国は中国だ。
ヨーロッパで販売される多くの製品も、
直接あるいは間接的に中国のサプライチェーンへ繋がっている。
もちろん市場経済だから当然である。
安くて性能が良ければ売れる。
それ自体は不思議ではない。
だが少しだけ奇妙でもある。
なぜなら同じ時期、
ヨーロッパは中国依存からの脱却も叫んでいたからだ。
EVでも。
バッテリーでも。
太陽光パネルでも。
重要産業の自立が語られていた。
ところが熱波は待ってくれない。
工場建設も待ってくれない。
産業政策も待ってくれない。
暑いものは暑い。
だから買う。
今あるものを買う。
ここでも理念は敗北している。
いや、
敗北という表現は正確ではないかもしれない。
より正確に言えば、
理念が現実へ順番を譲ったのである。
人は生きる。
そのあとで理念を語る。
これは当たり前のことだ。
だが問題は、
同じことを他国が行ったとき、
ヨーロッパは必ずしも同じ寛容さを示してこなかったことにある。
暑い国には暑い国の事情がある。
寒い国には寒い国の事情がある。
人口密度の高い国には高い国の事情がある。
資源のない国にはない国の事情がある。
ところが理念が普遍化すると、
その違いはしばしば軽視される。
「こうあるべきだ」
という言葉は便利だ。
だが便利すぎる。
なぜなら、
相手の事情を知らなくても言えるからだ。
しかし熱波は違う。
熱波は平等である。
理念も国境も区別しない。
そして40℃の空気は、
人々に一つの事実だけを突き付けた。
生存には、代えられなかった。
ドイツはなぜ原発を止めたのか
ドイツの脱原発政策を語るとき、
しばしば誤解されることがある。
彼らは原子力を嫌ったのではない。
少なくとも出発点はそうではなかった。
ドイツ人は真面目な国民である。
ルールを守る。
規律を重んじる。
長期計画を好む。
そして何より、
技術を信じる。
そのドイツが脱原発へ向かった理由もまた、
極めて真面目だった。
事故のリスク。
放射性廃棄物。
将来世代への負担。
それらを考えた結果、
原発依存から脱却しようとしたのである。
理念としては理解できる。
むしろ立派ですらある。
問題はその後だった。
社会は複雑だ。
エネルギー政策はさらに複雑だ。
一つの問題を解決すると、
別の問題が現れる。
原発を減らす。
すると電力を補う必要が生じる。
再生可能エネルギーを増やす。
すると出力変動への対応が必要になる。
蓄電技術はまだ十分ではない。
送電網も簡単には増強できない。
そこで登場したのが天然ガスだった。
天然ガスは便利だった。
石炭よりCO₂排出量が少ない。
出力調整も容易。
既存インフラも使える。
そして何より安かった。
ロシアから供給されていたからである。
当時としては合理的な選択だった。
少なくともそう見えた。
ところが歴史には困った性質がある。
未来を予告してくれない。
2022年。
ロシアはウクライナへ侵攻した。
そしてエネルギーは、
環境問題ではなく安全保障問題へ変わった。
昨日までの前提が崩れる。
突然である。
だが現実とはそういうものだ。
戦争は理念を尊重しない。
市場予測も尊重しない。
ロードマップも尊重しない。
現実は勝手にやって来る。
その結果、
ドイツは難しい立場へ置かれた。
原発は減らしたい。
ガス依存も減らしたい。
だが電気は必要だ。
工場も動かさなければならない。
家庭も支えなければならない。
そして2026年、
熱波がやって来る。
エアコン需要は増える。
電力需要も増える。
すると再び問われる。
理想は理解した。
では、
今夜の電気はどこから来るのか。
これは意地悪な質問ではない。
エネルギー政策とは、
最終的に必ずそこへ戻るからだ。
理想の電源構成。
未来の電力網。
脱炭素ロードマップ。
どれも重要である。
しかし、
その全ては、
今夜の照明が点くことを前提としている。
冷房が動くことを前提としている。
病院が止まらないことを前提としている。
その前提が揺らぐとき、
社会は突然現実へ引き戻される。
そしてここで、
一つの奇妙な現象が起きる。
昨日まで対立していたはずの価値観が、
急に共存し始めるのである。
原発反対。
だが原発電力は必要。
脱中国依存。
だが中国製エアコンは必要。
脱炭素。
だが天然ガスも必要。
その姿は一見すると矛盾している。
しかし本当にそうだろうか。
むしろ人間社会の本来の姿は、
こちらなのではないか。
現実の世界には、
完全な正解など存在しない。
あるのは、
その時々の制約条件の中で選ばれた妥協だけである。
もしそうなら、
問題は原発でもない。
ガスでもない。
再エネでもない。
問題は、
その妥協を認められるかどうかだ。
そして熱波は、
ヨーロッパにその問いを突き付けている。
涼しい国の正義
人間には奇妙な癖がある。
自分が置かれている環境を、
普遍的な常識だと思ってしまうのだ。
寒い国で生まれた人間は、
暖房を疑わない。
誰も暖房を贅沢とは言わない。
病院の暖房を止めろと言う人もいない。
高齢者施設の暖房を規制しろと言う政治家もいない。
なぜなら、
寒さは人を殺すからである。
誰もが知っている。
経験している。
理解している。
だから議論にならない。
ところが不思議なことに、
冷房になると空気が変わる。
冷房は贅沢だ。
冷房は環境負荷だ。
冷房依存は持続可能ではない。
そうした言葉が平然と語られる。
もちろん理由はある。
彼らの住む環境では、
本当にそうだったからだ。
25℃の夏。
湿度の低い空気。
石造りの建物。
夜になれば気温は下がる。
その環境なら成立する。
問題は、
それを世界の標準だと思い始めることである。
東京の夏は違う。
大阪も違う。
バンコクも違う。
デリーも違う。
マニラも違う。
世界には、
冷房がなければ生活そのものが成立しない地域が存在する。
それでも人間は、
自分の環境を基準にしてしまう。
そしてさらに困ったことに、
理念が成功すると、
その基準は道徳へ変わる。
省エネを推奨する。
ここまではいい。
しかしその次が問題だ。
省エネを実践する人は善。
できない人は悪。
ここから先は議論ではなくなる。
評価になる。
裁判になる。
そして人間は、
裁かれる側の事情に興味を失う。
なぜ冷房が必要なのか。
なぜ火力発電が残るのか。
なぜ内燃機関が消えないのか。
なぜEVが普及しないのか。
そうした問いは、
しばしば聞かれる前に結論が出る。
意識が低いからだ。
理解が足りないからだ。
変化を嫌っているからだ。
実に便利な説明である。
相手の事情を知らなくても使える。
自分の正しさを疑わなくても済む。
そして何より、
気持ちがいい。
人間は正しい側に立つことが好きだからだ。
だが現実は容赦がない。
熱波は理念を読まない。
気候は道徳を理解しない。
40℃の空気は、
政治的立場によって温度を変えたりしない。
その結果、
ヨーロッパは初めて体験することになった。
冷房が贅沢ではなく、
生命維持装置へ変わる世界を。
そしてそこで起きたことは、
実に興味深い。
誰も理念を守って死のうとはしなかった。
誰も冷房を拒否して倒れようとはしなかった。
誰も
「正しいので我慢します」
とは言わなかった。
人々はエアコンを買った。
電気を求めた。
生き残る方を選んだ。
当然である。
むしろ健全ですらある。
だがここで一つだけ、
避けられない問いが残る。
もしそれが正しい選択だったのなら、
なぜ同じ選択をしていた他国は、
これまで批判され続けてきたのだろうか。
この問いは厄介だ。
なぜなら、
カーボンニュートラルだけの話ではなくなるからだ。
そこから先に見えてくるのは、
環境問題ではない。
エネルギー問題でもない。
人間はなぜ、自分の正しさを世界の正しさだと思ってしまうのか。
正義は誰が決めるのか
カーボンニュートラルの議論で、
もう一つ興味深いことがある。
それは、
誰が正義を決めたのかという問題だ。
もちろん、
環境問題そのものは現実に存在する。
資源にも限界はある。
気候変動のリスクも無視できない。
だから環境対策が必要だという主張には十分な合理性がある。
問題はそこではない。
問題は、
その合理性がいつの間にか普遍的な正義へ変わることである。
世界には様々な国がある。
人口も違う。
産業構造も違う。
気候も違う。
資源事情も違う。
当然ながら、
優先順位も違う。
ある国にとって最優先は食料かもしれない。
ある国にとっては治安かもしれない。
ある国にとっては電力かもしれない。
ある国にとっては経済成長かもしれない。
ところが国際社会では、
時として一つの価値が特別な地位を得る。
そしてその価値は、
しばしば世界共通の正義として扱われ始める。
興味深いのは、
その正義を決める人々もまた、
人間だということである。
企業。
政府。
官僚。
国際機関。
投資家。
研究者。
NGO。
誰もが何らかの利益を持っている。
何らかの事情を持っている。
何らかの思惑を持っている。
それ自体は悪いことではない。
人間社会とはそういうものだからだ。
問題は、
その複雑な利害関係が、
いつしか純粋な正義の物語として語られ始めることである。
例えば環境規制。
それは地球環境を守るためかもしれない。
同時に、
自国産業を守るためかもしれない。
例えば炭素税。
それは排出削減のためかもしれない。
同時に、
新しい税収源かもしれない。
例えば脱炭素投資。
それは未来への投資かもしれない。
同時に、
巨大な市場創出でもある。
どちらが正しいのだろうか。
答えは簡単だ。
おそらく両方である。
人間の政策はそんなに単純ではない。
環境保護だけで動くわけでもない。
利益だけで動くわけでもない。
理念と利害。
理想と現実。
公共善と自己利益。
それらが混ざり合って政策になる。
だから本来、
政策には謙虚さが必要だった。
「これが正解かもしれない」
「しかし間違っているかもしれない」
その留保である。
ところが理念が成功すると、
その留保は少しずつ消えていく。
やがて、
「これが正しい」
になる。
さらに進むと、
「反対する者は間違っている」
になる。
そして最後には、
「反対する者は相手にしなくてよい」
になる。
ここまで来ると危険だ。
なぜなら、
人類は何度も同じ失敗を繰り返してきたからである。
宗教改革もそうだった。
革命思想もそうだった。
市場原理主義もそうだった。
共産主義もそうだった。
出発点は違う。
理念も違う。
しかし構造は驚くほど似ている。
自分たちの価値観を正しいと信じる。
それを広めようとする。
やがて世界の基準にしようとする。
そして現実が追いつかなくなる。
今回の話も例外ではない。
カーボンニュートラルが正しいかどうか。
それは本質ではない。
本質はもっと単純だ。
もし本当に正しいのなら、
なぜ40℃の現実は、
これほど多くの例外を必要としたのだろうか。
その問いは、
環境政策だけに向けられているわけではない。
人類が作るあらゆる理念へ向けられている。
そして熱波は、
その問いをヨーロッパへ突き付けたのである。
生存には代えられなかった
熱波は面白い。
なぜなら、
人間の本音を隠せなくするからだ。
政治家の演説も。
専門家の提言も。
企業の広報も。
熱波の前ではあまり意味を持たない。
暑いものは暑い。
人間は汗をかく。
体温は上がる。
そして限界を超えると死ぬ。
極めて単純な話である。
だから熱波がやって来ると、
人々は驚くほど現実的になる。
冷房を買う。
電気を使う。
電力供給を求める。
そこに思想はない。
あるのは生存だけである。
もちろん、
これはヨーロッパだけの話ではない。
世界中の人間がそうする。
日本人もそうする。
アメリカ人もそうする。
中国人もそうする。
私たちも同じだ。
生きるためならエアコンを使う。
生きるためなら電気を使う。
生きるためなら発電所を動かす。
それが人間である。
だから本来、
誰も責められない。
問題はそこではない。
興味深いのは、
その当たり前の行動が、
これまでしばしば批判の対象だったことである。
冷房依存。
エネルギー浪費。
化石燃料依存。
原発依存。
中国依存。
そうした言葉は長年使われてきた。
しかし熱波は、
それらの言葉よりも強かった。
40℃の空気は説得力がある。
論文よりも。
政策文書よりも。
国際会議よりも。
人間の身体へ直接語りかける。
暑い。
死ぬ。
冷やせ。
それだけである。
そして人々は従う。
これも当然だ。
むしろ従わなければ愚かである。
だから今回の熱波が暴いたものは、
エアコン不足ではない。
電力不足でもない。
カーボンニュートラルの矛盾ですらない。
もっと根本的なものだ。
それは、
人間が最後に従うものは理念ではないという事実である。
人類は文明を築いた。
法律を作った。
国家を作った。
宗教を作った。
哲学を作った。
そして無数の理念を作った。
だがその全ては、
生きている人間のために作られたものだった。
人間が理念のために存在するのではない。
理念が人間のために存在するのである。
ところが理念が成功すると、
時々この順番が逆転する。
人間が理念へ奉仕し始める。
現実が理念へ合わせられる。
例外が悪とされる。
異論が軽視される。
そして人々は忘れる。
理念の目的は、
生存を助けることだったはずだと。
熱波は残酷だった。
だが同時に誠実でもあった。
人間の本音を暴いたからである。
どれほど高潔な理念を掲げても、
どれほど美しい未来を語っても、
どれほど崇高な目的を掲げても、
人は最後には生きる方を選ぶ。
それは弱さではない。
卑怯でもない。
むしろ健全である。
問題は、
その当たり前の事実を忘れたときに始まる。
理念は人間を導くことはできる。
しかし、
人間を生かすことはできない。
人間を生かすのは、
電気である。
食料である。
水である。
そして時には、
エアコンである。
終章 ─ 正しさは40℃に耐えられるか
ダーウィンは有名な言葉を残した。
最も強い者が生き残るのではない。
最も賢い者が生き残るのでもない。
変化に適応した者が生き残るのだ。
もっとも、
ダーウィン自身はこの言葉をそのまま残してはいないらしい。
だが内容は本質を突いている。
自然は理念を評価しない。
正しさも評価しない。
適応したかどうかだけを見る。
熱波も同じである。
40℃の空気は、
人類がどんな理想を掲げているかに興味を持たない。
脱炭素にも興味がない。
環境思想にも興味がない。
国際会議にも興味がない。
ただ暑い。
それだけである。
そして人々はエアコンを買った。
電気を求めた。
発電能力を求めた。
当たり前だ。
人は生きるために生きている。
理念のために死ぬためではない。
だから私は、
ヨーロッパの人々がエアコンを買ったことを笑う気はない。
私も買う。
あなたも買う。
誰だって買う。
問題はそこではない。
本当に滑稽なのは、
その選択を長年続けてきた人々に対し、
これまで何を語ってきたかである。
暑い国の冷房を批判した。
火力発電を批判した。
原発を批判した。
内燃機関を批判した。
エネルギー安全保障を語る国々を批判した。
もちろん、
全ての批判が間違っていたとは言わない。
だがそこには一つの前提があった。
自分たちの環境が標準であるという前提だ。
自分たちの事情が世界の事情であるという前提だ。
自分たちの正しさが普遍的な正しさであるという前提だ。
そして2026年の夏、
その前提は40℃の空気によって吹き飛ばされた。
実に皮肉な話である。
気候変動への危機感を世界へ発信してきた人々が、
気候変動によって最も厳しい試験を受けることになったのだから。
しかし私は、
これを失敗だとは思わない。
むしろ貴重な経験だったと思う。
人間は、
自分が同じ立場になるまで理解できないことがある。
冷房が生命維持装置になる世界。
電力が安全保障になる世界。
エネルギーが理想論だけでは決まらない世界。
それを体験したことには意味がある。
だから本当に必要なのは、
謝罪ではない。
敗北宣言でもない。
もっと単純なことである。
世界には様々な事情がある。
世界には様々な制約がある。
世界には様々な優先順位がある。
その当たり前の事実を認めることだ。
理念は必要だ。
未来を語るために必要だ。
人間を高い場所へ導くために必要だ。
だが理念には欠点がある。
成功すると、
自分自身を疑えなくなる。
そして、
自らを世界の基準だと思い始める。
その瞬間、
理念は知恵ではなくなる。
権力になる。
2026年の熱波が暴いたのは、
カーボンニュートラルの失敗ではない。
ヨーロッパの失敗でもない。
もっと普遍的なものだ。
人間は、
自分の正しさを世界へ輸出したがる。
そして現実は、
それを定期的に破壊する。
だから私は思う。
エアコン売り場で崩れたのは、
カーボンニュートラルではない。
正しさを独占できるという幻想だったのだと。

